文次郎が、己の気持ちを自覚しきる前に、伊作当人から
	「僕のこと好きなの?」
	指摘されたのは、4年の夏休み中。

	そして、「半年間指一本触れない」という条件を、どうにか守ることに成功し、名目上は
	一応「恋人」となったのは、冬も終わり、5年に進級できる見通しが立った頃のこと。




	それから更に数か月。文次郎と伊作の間に、進展と呼べるものは、ほぼ存在していない。

	とか言うと、伊作に対して過保護な仙蔵・留三郎の両名に、絞め殺されかねない程度の
	ことはあった。
	というのは、不眠症の気がある伊作が、「安らかに眠れる気がする」と言って、文次郎に
	添い寝をねだることで、それは付き合いだす前にはなかった行動なのだ。


	しかし、文次郎(当時14歳)は、血気盛んな、体力も有り余っている青少年であるからして、
	そんなもんただの生殺しでしかないわけである。


	というわけで、何度か勢いで組み敷こうと試みてみたこともある。しかし、一度目は
	ひきつけを起こされ、二度目は呼吸困難に陥られ、三度目に蒼褪めた顔で小刻みに
	震えながら歯を食いしばられた辺りで、諦めた。

	そこまでの拒絶反応を示されては、興は醒めるは、萎えるは、何より罪悪感が半端な
	ものではないというものである。さらに、伊作の怯え方が、未知の行為への恐怖では
	なさそうだと感じられる程度には、文次郎とて鈍くはない。


	故に文次郎は、後一歩の状態でかなりキツイお預けを食らうことに甘んじていた。


	そんなある休日のこと。


					


	文次郎は自室で机に向い、帳簿の計算をしており、伊作はその傍で薬学に関する書籍を
	読んでいた。そのように同じ部屋に居ながら、全く違うことをして、会話もなく時間を
	過ごすことは、取り立てて珍しいことではない。
	そんな状況で、伊作がポツリと
	「今日一緒に寝てもいい?」
	と訊いてきた。どうもこの所、実習や実技試験やらが重なった上、他学年の実習帰りの
	手当にも駆り出されて疲れているが、相変わらず寝つきは悪いから。がその理由らしい。

	文次郎としては、色々複雑ではあるが、積極的に断る理由はないので承諾し、その旨を
	夕食時に顔を合わせた時に、同室者である仙蔵に伝えると、彼は気を利かせたというより、
	単に己がその光景を見たくが無いために、その晩自室には戻って来なかった。


	そんなこんなで枕にされたはいいが、しばらくして、少々抑えが利かなくなりかけた文次郎は、
	眠りに落ちかけていた伊作に言葉を濁しながら一言かけ、厠で手早く処理してこようとした。
	すると察した伊作は、少し考えるようなそぶりを見せてから、部屋を出掛けた文次郎の腕を
	掴んで引き寄せ、決死の形相で口づけ、明らかに嫌悪感の漂う表情で
	「いいよ」
	と、絞り出すような声で呟いた。


	正直な所、そんな風に我慢してもらって関係を結べた所で、嬉しくも何ともない。
	けれど、コレを逃せば、二度と機会は無い様に感じられた文次郎は、なるべく恐怖や不快感を
	与えないよう、細心の注意を払いながら、伊作の肌に触れていった。



	「堅物」だの「忍者馬鹿」と言われる文次郎とて、委員会の先輩や友人などに連れられ、
	色街に足を踏み入れたことはあるし、商売女と肌を合わせた経験も幾度かはある。
	それらの女達に比べて、伊作には欠片程も「女らしさ」というものが無かった。

	必死で「男」であろうとし、曲がりなりにも5年間忍術学園で他の生徒と肩を並べていた
	身体は、適度な筋肉がついていて硬く、肌の色も「白い」とは言い難い。化粧はもちろん
	していないので、白粉などの甘い香りがする筈はなく、むしろ何処となく薬臭い。
	その程度のことは、同衾するようになる前からでも解っていた。

	それでも、直にその肌に触れることが叶っただけで、文次郎は充分だった。


	

	
	「ようやく手に入れた」という喜びと、今までに溜まりに溜まった欲求と若さなどから、
	いささか歯止めが利かず、性急に事を進めながらも、辛うじて伊作の様子を窺っている
	内に、文次郎は奇妙なことに気が付いた。
	伊作は終始蒼褪めたまま、歯を喰いしばって耐え続けているだけだが、ふとした拍子に、
	心底驚いたように目を見開いて見つめてくることが、幾度かあったのだ。それは、苦痛に
	表情が歪んだ瞬間に動きを止めたり、声を殺す為に唇を噛もうとしたのをやめさせたり、
	噛みちぎりかけた唇に滲む血を拭ってみたりと、気遣ってみた瞬間や、名前を呼んだ時など
	だったが、気付いて「どうかしたのか」と問うてみても、怪訝そうに「何が?」と返された。
	ということは、自覚の無い無意識の反応なのだろうと解釈したので、以降そのような反応を
	されても問うことはしなかったが、後々まで文次郎の中に疑問として残り続けた。


	そして更に奇妙だったのは、終わるなり伊作は、夜着をまとうと、逃げるように部屋を
	出て行こうとした。泡を食った文次郎がその腕を掴んで引き留めようとすると、びくりと
	身体を強張らせてから、振り向いて文次郎の顔を見るなり、その場にへたり込んで「ああ、
	そうか」と呟いた。それから、
	
	「ごめん。何かちょっと混乱してるから、部屋に戻る。本当に、ごめんね。君は何も
	 悪くないんだけど、その、えっと、うまく言えないけど……」

	などと弁解をしながら、ふらふらと部屋を出て行った。
	

	取り残された文次郎は、何が何だか訳が分からなかったが、とりあえず追わない方が良い
	ことだけは察し、呆然としたまま寝ようとしたが、結局眠りに就くことは出来なかった。



	翌日は、流石に気まずいからか、伊作も文次郎も、お互いを避けて行動していた。
	けれど数日経つと、伊作は何事もなかったかのような顔で、いつも通りの態度に戻った。
	しかし文次郎の方はそうはいかず、だいぶギクシャクとした態度をとっては、その度に
	仙蔵や留三郎などから思いきりどつかれた。確かにこのままでは、周囲に怪しまれる。
	それくらい、文次郎とて解っている。けれど、アノ夜の記憶が甦ったりなんだりで、
	伊作の顔を直視出来なくなる程度には、思春期真っ只中なのも事実なのだから、ある
	程度は仕方ないと言えなくもない。



	そんな文次郎が、数日悩んだ挙句出した解決策は、後々考えても、だいぶ妙ながら
	意外と有効なものだった。


					




	休日前の放課後に、外泊届をまとめて二人分出し、ロクな説明もせずに伊作を学園から
	連れ出し、町中の「家」に着くなり文次郎は、

	「とりあえず、女に見えるような格好してろ」

	と言い残して、どこかへ行ってしまった。


	訳が分からないが、何某かの考えがあるのだろうと感じた伊作は、数枚の着物の中から、
	淡い翠の縞模様の小袖に卵色の細帯を選び、髪は結うのが面倒だったので、少々丁寧に
	梳っただけで下ろしたまま、薄く紅をさしてみた。しかしその程度では、女には見えるが
	さほど印象が変わらないので、やはり髪を結って白粉も塗るべきか。などと考えていると、
	文次郎が戻ってきた。その手に少しの野菜などが見えることから、夕食の材料でも買って
	きたのだろうことは解ったが、やはりまだ目的は見えてこなかった。


	「お帰り。…こんな感じでいいのかな?」
	「ああ。充分だ」
	「それじゃ、そろそろ目的訊いてもいい?」


	何しろ「次の休み明けとけ」だけで、何度理由を訊いても「向こうで話す」としか
	答えが返ってこなかったにもかかわらず、大人しく従ったのだから、いい加減答えて
	くれてもいいだろう。と、伊作は思っていた。

	その問いに対し文次郎は、訊かれるだろうことは分かっていた筈なのに、しばらく
	逡巡してから、言い難そうに口を開いた。

	「……。俺は、お前が女なことを忘れることにした」
	「は? 何それ?」

	わざわざ学外に連れだし、女装をさせた状態で何を言うのか。と、伊作は耳を疑った。

	「いや、だから、その、普段学園に居る間は。という意味なんだが……」
	「……。あ。ああ! そういうことか! つまり、『忍術学園の善法寺伊作』と、今此処に
	居る『私』を、別の人間として捉えることにした。という意味であっている?」

	珍しく言葉を濁しまくる文次郎の言い分が要約出来るまで、少し時間がかかったが、一旦
	納得がいくと、案外悪くない考えのように、思えなくもなかった。
	
	「確かに、そうしてもらえる方が僕…じゃないや。私としても楽かもしれない。けどさ、
	 君って実の所そんな器用な性格してないよね。出来るの?」
	「努力はするから、お前も何か変化つけろ」
	「うん。解った。頑張って、みる」

	答えながら、伊作は何となく文次郎の真の目的を悟ってしまった。そのことを口に出そうとは
	しないし、おそらく拒めば拒めるのだろうが、記憶の上書きがしたいのだろう。
	そう気付いた時。何故かさほど抵抗感は起こらなかったが、わざわざ自分から指摘して
	やる気にもならなかったので、素知らぬ顔で様子を見ることに決めた。


	しかし、夕食の支度を済ませ、食べ終えて、持ち込んだ宿題を終わらせても、一向に
	文次郎は何も言ってこなかった。というより、何か言おうとしていなくもないが、口を
	開く前にやめる。ということを、伊作に気付かれないように幾度か繰り返していた。
	もちろん伊作はそれに気付いていたが、気付かない振りをしていただけなのだが。

	

	「ところで。何かお望みのことがお有りでしたら、口に出して言って下さらねば、解りません」

	わざとらしい女口調で挑発してみたのは、いい加減じれったい空気に嫌気がさしてきたから。
	というのと、自分も恐怖の記憶を上書きしてしまいたかった。という理由があったが、後者に
	関しては無意識にそう感じたのだろうと、後になってから分析しただけで、この時の伊作は
	まったく気付いていなかった。


	結局。その後数刻に亘って文次郎は躊躇い続け、呆れ果てた伊作が就寝しようと布団を
	敷き始めたところでようやく、それを遮るように腕を取り、自分の方に向き直させながら、
	「俺に触れられるのは不快か?」
	と真顔で問い掛けてきた。

	背後から腕を取られ、身体の向きを変えられた瞬間。伊作は全身が強張り、反射的にその手を
	振り払おうとした。しかし次の瞬間に、声から相手が文次郎であると認識できると、一気に
	身体の力が抜け、片腕だけ文次郎に掴まれた高さのままで、その場にへたり込み、ゆるく首を
	振ることで問いに答えた。すると文次郎は腕を放し、へたり込む伊作に目線を合わせるように
	しゃがむと、抱き寄せながら「これでもまだ平気か」と問いを重ねた。触れられた瞬間、再び
	身体を強張らせはしたが、それでも腕の中で伊作が小さく頷けば、今度は口付けが降ってきた。


	「…これ以上は、お前が嫌だと思うなら何もしない」
	「しょうがないなぁ」

	文次郎の精一杯の―最早やせ我慢に近い―気遣いらしき言葉に、伊作は苦笑しながら許可を
	出したが、同時にその笑みは若干引きつり気味だった。しかし触れる度に身体を強張らせ、
	時折怯えるような反応を見せることはあれど、蒼褪めたり、震えが止まらないという程の
	拒絶反応を示すまではいかなかった。

	その理由を文次郎は、「忍術学園内で無いこと」と「多少なりとも伊作自身の意思を尊重
	していること」だと考えていた。というのも、忍術学園の上級生の中には、滅多に色町に
	繰り出す機会も、商売女に注ぎ込む金もないが、若さ故に溜まった慾を発散するため、見目
	麗しい生徒を女代わりに見立てたり、元から衆道の気があって関係を迫る輩が、少なからず
	居ることを文次郎は知っていた。
	その中には、合意で、好き合って付き合っている者や、互いに割り切って処理や房中術の
	予復習と称して関係を持っているだけの者もいるようだが、大半は力にものを言わせた
	上級生が、後輩や自分よりも非力な同期を手籠めにする形で。といった場合が多いという。
	何しろ実例として、整った女顔で、一見非力そうな仙蔵が、その手の申し出をしてきた者を、
	手酷く振ったり、しつこい時には火器で吹っ飛ばしたことがあることや、他の後輩などでも
	数人、見た目で侮って痛い目を見せられた。という噂を知っている。だから、仙蔵程強気に
	出難そうな伊作も、そういった目に遭い、押し倒されかけたことでもあってそれが恐怖の
	記憶として残っているのだろう。と想像し、なるべくその記憶と遠い状況になるように、
	学外で、意思確認をし、他人として扱うことにもしてみたのだ。




	文次郎の想像よりも、何倍どころか何十倍も、何百倍も酷い仕打ちを、伊作は受けてきた。
	しかし、根柢の発想は決して間違ってはいない。だからこそ伊作は、苦痛にしか感じられず
	とも、求められれば拒むことはせず、少しでも慣れようとはした。それでも、恐怖の記憶は
	根深く、また経験の乏しい文次郎の行為は拙い上に、間を置けば置いた分だけ余裕が無くなる
	ため、ほとんどの場合において苦痛しか得ることができなかった。

	そして文次郎の側は、普段の学園生活の間は伊作を意識しないように努め、休日や長期休暇中
	でも、伊作が行為を苦痛に感じ、常に耐えているだけなのが解っているため、滅多なことでは
	手出しはしないと自分の中で決め込んでいる。その反動で、一度触れたが最後。伊作に無理を
	させることとなり、結果的には悪循環となっている。

	それでも、伊作は文次郎が、彼なりに自分に気を遣い耐えている事を解っているし、文次郎も
	なるべく自制しようと、努力はしている。その努力を酌んで、伊作は文次郎に添い寝をねだる
	ことを一切やめ、他の友人達に甘えることも極力控えるようになった。そのことは、当の友人
	達―特に留三郎と仙蔵―にとっては、より一層不満だったのだが、それが伊作なりのけじめ
	だったという。

	そして、その分を補うつもりか、文次郎への腹いせの細やかな嫌がらせなのか、これ以降
	友人達は、ことあるごとに女姿の伊作を伴って出掛ける事を要求するようになり、小袖や
	身につける飾り、紅などを贈ることが増えた。そのことが文次郎には面白くなかったが、
	あまり仲間内の反感を買うのもどうかと思うし、伊作が楽しそうなのも、綺麗な格好をして
	いるのを見るのも、実を言えば内心やぶさかではないので好きにさせていた。


	そんなある日。文次郎は、ふと気付いたことがあった。仙蔵の姉や長次の母から譲り受けた
	着物が、それなりの数になるにも関わらず、自分といる時の伊作が、たいてい同じ小袖を
	着ているような気がしたのだ。しかもそれが、アノ日に着ていたのと同じものだと気付き
	問うてみると、

	「色柄が気に入っている。っていうのもあるけど、コレは、仙蔵の姉上のものでも、長次の
	 母上のものでも、ましてや留さんが買ってくれたものでもなく、自分で買った古着だからね。
	 ……君、僕が彼らにもらったもの着てるの嫌いでしょ? あとは、アレより前にこの小袖を
	 着てた時に、珍しく褒めてくれたけど、多分それは覚えてないよね」

	にっこりと笑う伊作の答えに、文次郎は目を丸くした。確かに、他の友人達が与えた物を
	伊作が身につけていることはあまり好きではない。しかし文次郎自身は何も贈ったことが
	無く、物によっては、伊作に実によく似合うと思えることもあるため、それを口に出した
	ことは無いはずである。ということは態度に出易いのかと、自分の未熟さに歯噛みしかけ
	ていると、伊作は少しだけ付け加えた。


	「留さんも、仙蔵の姉上のは派手すぎて好きじゃないみたいだし、逆に仙蔵は留さんや長次の
	 選ぶものは地味すぎると思ってるみたいで、こへも派手な方が好きらしいけど、色の好みが
	 仙蔵とは真逆で、色合いだけなら留さんと仙蔵の好みが近い筈。だから、それぞれの趣味に
	 合わせるようにしてるんだ。結構みんな、そんなもんだよ」



	この言葉が少し悔しかった文次郎が、後日その小袖に合わせる細帯と、普段遣いも出来そうな
	髪結紐を伊作に贈ったという噂が、まことしやかにささやかれたが、当の文次郎がだんまりを
	決め込み、伊作も笑ってはぐらかしたため、真相は定かではないという。
	




10代の内の潮江さんは、 「気遣いはするけど、若さ故に歯止めが利かないことも…」 が基本で、意外に鈍くもないようです。 でも、現実よりも理想を見がちな若造で、真っ当かつ健全な思考の持ち主であるが故に、 伊作の苦境に気付いていないし、想像すらできない。 そんな辺りに、伊作は救われてると同時に辛くも感じている。 てなつもりで書いているんですが、どうなんでしょう 2009.4.23 2009.4.26 手直し