伊作が自主退学してから、同期の友人達が通常通り 卒業するまで、二月ほどの間があった。 その二ヵ月間。伊作は見知らぬ土地で、名も身分も変え、 日々育っていく胎の児と、時折届く友人達からの手紙だけを 頼りに、たった一人で暮らしていた。 とはいえ、長次の地元である町の治安は良く、薬師としての信用も 早い内に得られたため、その暮らし自体はそう悪くはない。と、 伊作は返信の手紙に書いており、友人達もそれを疑いはしなかった。 ただ、彼らにはいくつかの懸念事項があった。 それは伊作自身の問題で、一つは 「己が女の身であることにあまり慣れていないこと」 短期間ならば女として過ごしたことはあっても、基本的に男に 見えるように立ち振る舞っていたため、まだ言葉づかいなどで、 ふとした拍子にボロが出かねないのだ。 しかしそこは、「男所帯育ちなもので」などと、誤魔化しが きかないでもなく、今後少しずつ慣れていくしか手はない。 もう一つは、 「身重の身でありながら、一人で暮らしていること」 越して来た日から、恰好の井戸端会議のネタにされているようで、 中には面と向かって胎の児の父親について訊いてきた者もいたが、 無責任な噂では、「不義説」と「死亡説」が最有力になっている らしい。そのことについては、当の文次郎が実際に顔を出せない 状況なので仕方ないが、「父親候補に名乗りを上げてくる若者も 居る」と手紙にあった時は、文次郎だけでなく、仙蔵や留三郎 なども、「その男を絞める」と息巻いて長次に諌められた。 そして、一番の問題点は 「闇と孤独をひどく怖れること」 かつて、同室の留三郎が課題でしばらく留守だった際、疲労が 限界に達して気を失うまで眠れなかったことがあるほどの、 酷い睡眠障害を伊作は抱えている。 それは、他者の気配があると眠れないが、独りでも悪夢に苛まれる。 という矛盾したもので、「絶対に安全だ」と判っている相手の傍で しか、安眠が出来ない有様だった。 その原因を知る者は僅かであり、年々少しずつ克服はしてきた。 けれど、環境も状況も変わった中で、果たして二月も耐えられるのか。 そんな風に、友人達は思ったのだった。懸念を抱えたまま、「元気だ」「大丈夫だ」という手紙の言葉を信じ、 ようやく忍術学園を卒業した文次郎は、初めて足を踏み入れる「自宅」に、 何と言って入るべきか、少し悩んでいた。 何しろすべてが急な話だったので、長次が書面で母と連絡を取り、 さらに人伝てで手に入れた家なので、伊作以外の人間は、場所しか 知らなかったのである。 その上、「夫婦」として顔を合わせるのも、この日が初めてなので 「ただいま」とか「帰った」と言っていいものか。とも思うし、 かといって客ではないのだから「邪魔する」は絶対に違う。 そんなわけで、文次郎は悩んでいた。 しばしそうやって、戸に手をかけて開けようとしては引っ込めて考える。を 繰り返していると、気配を察したのか、中から戸が開き伊作が顔を出した。 「…ああ。やっぱり文次だ。お帰り。何してるの?」 二か月ぶりに聞く伊作の声は、学園時代の意図的に低めに話していた ものでも、町で女装している時に知人に会った際の作った高いものでも ない、自分達だけが知る、柔らかくどこか甘い響きをもった地声だった。 記憶の中と、同じ声に話し方。 けれど、傷み気味だった髪を丹念に整えて結い、眉も揃えて薄く化粧を 施し、淡い色の小袖に細帯というその姿は、別人のようにも見えた。 入るのを躊躇っていたことを適当に誤魔化しつつ、体調や町のことに ついて訊いてみたり、友人達から預かってきた手紙やら贈り物やら伝言 やらを渡しながら、文次郎が改めて伊作の様子をマジマジと観察して みると、化粧で隠そうとはしているが相当顔色が悪い上に、多少丸みを 帯びた体形になっている以上に、痩せているような気がしてきた。 そのことをさりげなく指摘すると、伊作は真っ蒼な顔色で微笑った。 「気にしないで。単に、思いの外つわりがひどめなだけだから」 「どう見ても、『大丈夫』とは思えん顔色だぞ。それと、こんな薬臭い 中に居て、平気なのか?」 忍術学園の医務室や、伊作達の自室程ではないが、新たな家にも薬品臭が 染みつきはじめており、つわりでにおいに敏感になっているとしたら、 辛いのではないかと文次郎は思った。 「それは平気。動物系は肉も脂もにおいも全部受け付けないけど、 植物系なら、むしろ香りが強い方が楽」 肉や魚に関しては、市の前を通り掛るだけでも吐き気を催し、動物由来の 軟膏や香料、更に相手によっては、体臭などでも気分が悪くなるのだという。 そのため、最近では食材の買い出しに行くのも辛いことがあり、食事を裏の 畑で栽培している薬草の内で食用になるものや、乾し飯などで済ませることも 少なくないのだという。 「ひとまず、君(の体臭)は大丈夫みたい」 青白い顔で茶化すように微笑む伊作に、拒絶されなくて良かったとは思ったが、 やはり「元気」でも「大丈夫」でもないだろうと、文次郎は内心呆れ果てた。 「……。飯は俺が作ってやるから、お前寝ろ。寝付くまでは傍に居てやるし、 寝てる間に買い出しもしてきてやる。何か、要りそうなもんはあるか?」 つわりと軽い栄養失調に加え、明らかに寝不足なのが見て取れるくせに、 「いや、別に、大丈夫だから…」 などと言い訳しようとする伊作の言葉を聞き流しながら寝床を用意すると、 有無を言わさず寝かしつけ、文次郎は町へと出掛けた。 寝不足状態とはいえ、基本的に眠りの浅い伊作が目覚める前に戻るため、手早く 米や野菜などの買い物を済ませながら、さりげなく自分の素姓を吹聴しつつ 文次郎が町中を見て回って帰宅すると、伊作は穏やかに眠り続けていた。 その安らかな寝顔に安堵すると同時に、自分が持ち帰った荷の端を握りしめて いるのが目に入った文次郎は、何やら気恥ずかしい思いがした。 しかも、食事が出来て起こした伊作にそのことを指摘すると、どうも一度 半覚醒して、無意識で手繰り寄せるとまた眠りについたようだと返され、 より一層気恥ずかしさが増したが、平静を装っていると、伊作は気づかずに 差し出された粥を食べながら呟いた。 「君の作るおかゆって、塩気が強くてしょっぱいよね」 「悪かったな」 一応自覚はあるが、薄味だと食べた気がしない文次郎の作る料理は、 たいていの場合において、他の人間が作るものより塩が多い。 「ううん。嫌いじゃないよ。普段から食べたいとは特に思わないけど、 風邪で味が判らなくなってる時や、今なんかはちょうどいい」 伊作が風邪を引くたびに差し入れられる、仙蔵の汁粉(甘さ控えめ)や 小平太の卵酒(酒が多すぎる)、文次郎の粥など―たまたま居合わせて 相伴に与ったことこある後輩の間では「貴重品」と呼ばれている―に、 伊作本人がケチをつけたことは一度もないが、称賛されたことも仙蔵 以外は殆どなく、また普段なら「塩分過多は〜」などの説教になること すらあるため、この素直な言葉に、文次郎は内心驚いた。 「そうか。んじゃ、食ったらまた寝ろ。…起きるまではどこにも行かんから」 照れ隠しに、いつもと同じくそっけなく言いきろうとしたが、疲れの 所為か妙に儚げな伊作の様子に、文次郎は少しだけ意地を張るの止めた。 「ありがとう。でも、久しぶりにゆっくり眠れたから、今度は話がしたいな。 …この二月のことでも、君自身のことでも、何でもいいから話して?」 結局、一杯しか粥を口にしなかった伊作は、椀を置くと、再び布団に 追いやられながらも、文次郎とハッキリ目を合わせながらねだった。 「んなこと言われても、急には何も出てこねぇよ」 「そう? じゃあねぇ――」 楽しそうに例を挙げて話をせがむ伊作の様に、やはり独りが辛かった のだろうと感じ取った文次郎は、珍しく望むまますべての問いへの 答えを話して聞かせてやった。
つわりと睡眠障害でボロボロだけど、精神状態は落ち着いてはいる新妻さん。 この時点では、見た目で妊婦だとは判らない程度な気もしますが、体調不良の 理由を近所の人や患者に訊かれてつわりだと答えたことや、長次母との雑談から、 それを聞いていた侍女→お使いに行った先の店の人→その知り合いの町人 といった感じに噂が広がったということで。 当家(というか『落花』)の伊作さんの地声はアルト。 学園時代はかろうじてテナー。外では無理矢理メゾソプラノ。 って感じでお願いします。 何か最近、甘めの文伊が書きたい衝動にかられております。 2009.1.11 当帰(とうき)は、婦人病や鎮痛・解熱他の効能をもつセリ科の植物です。 戻