誰にも―留三郎にも仙蔵にも―話したことは無いけれど、僕が初めて暴行されたのは、アノ時ではない。
けれど相手はアノ中の一人で、委員会の先輩で鼻の利く男だった。
不自然な血の臭いで勘づき、別の先輩の名前を騙って呼び出され、光の差さない倉庫でだったから判らないと
でも思ったのか、口は塞がれたが目隠しはされなかった。けれど僕は、実はかなり夜目が利くし、あの頃既に、
声でも体格―というか骨格―でも人の見分けがついたので、誰だかは容易く判った。
最初は、恐怖よりも苦痛や嫌悪感が勝った。だから、気が済んだのか解放された後、身体は辛かったし、
その先輩には二度と近寄りたくないから、新野先生に全て話してどうにかしていただこうかとは考えた
けれど、他の先輩や先生方を恐いとは感じなかった。
だけども、新野先生にお話しする前に、味を占めたのかその先輩が弟と取り巻き達とで、二度目を仕掛けて
来た。それが、留三郎に発見されたアノ時。しかも今度は呼び出しのようなまどろっこしいことはせずに、
すれ違いざまに気を失わせ、保健委員の立場を利用し、病人を運ぶ振りをした後、荷物に擬態させて倉庫に
連れ込んだようだった。
意識を取り戻した時には、目隠しをされて猿轡を咬まされ、腕も縛り上げられていた。それでも、自分を
弄んでいるのが、複数の人間なのは判った。視覚を奪われたことで他の五感が増幅され、耐え難い不快感と
嫌悪感に見舞われ、吐き気を催した。身を捩って逃れようにも、複数の手に押さえつけられ、「助けて」と
叫ぼうとしても声は出せず、同時に仮に叫べたとしても、助けを求めて露見するわけにいかない自分の身の
上に気付き、そこで初めて「恐い」と感じた。
いっそ早々に意識を失ってしまえば、それ以上何も感じずに済んだろうし、相手も興が覚めて解放したかも
しれない。しかし苦痛と恐怖で中々それは叶わず、ようやく意識を手放せる瞬間には「これで逃げられる」
と安堵すらした。けれど意識を失っても、悪夢の中で同じことが延々繰り返されていた。
医務室で最初に意識を取り戻し、留三郎と言葉を交わした時の記憶は無い。覚えているのは、次に意識が
戻った時に、僕を覗き込んでいた山本シナ先生の、悲痛な表情。
「何があったのか、話せる限りで構わないから、話してくださる?」
そう優しく問い掛ける山本先生に、首を振るしか出来なかったのは、思い返したくなかったから。けれど
思い返さなくても、眠れば悪夢として自動で繰り返された。
話せば、全て先生方は信じてくれると解っていた。けれど、表だって責め立て、罰を与えることは出来ない
であろうことも解っていた。
抵抗したって無駄だと諦め、冷めた目で他人事のように考えようとする自分と、苦痛に耐えられず、恐怖を
振り払えない自分との間で混乱が生じ、先輩も先生も関係なく無条件で「男」を恐れ、錯乱していったのは、
シナ先生や新野先生、仙蔵達の気遣いに依って、
「男は皆同じ」
だと気付いてしまった時から。例えアノ連中に報いた所で、また同じ目に遭うかもしれない。気遣われ、
労られ、憐れまれることでその現実を悟り、逃げられ無い悪夢に捕らえられた己の状況に戦慄し、事実
その後も何人に嬲られたか、最早記憶にない。
「泣いても誰も助けてくれない」と全てを諦めるようになったのは、アノ後からではなく、物心付いた頃。
母上は、僕を息子で跡取りだと信じ込んでいたことと、父上しか見えていなかったこと以外では、結構凛と
した厳しい人だったから、泣くことも甘えることも殆どさせてもらえず、うんと小さな頃は織野が慰めて
くれたりもしたけど、そうすると「甘やかすんじゃない」と叱られ、織野は母上が全てだったから、申し訳
なさそうな顔で、見守るだけになった。
母上が病気で亡くなってすぐに、織野もお嫁に行かされて、僕は独りになった。けれど淋しくは無かったと
いうか、「淋しい」という感覚は知らなかった。
様々なものが欠けていて、色々な所が壊れていた僕は、忍術学園で君達と出会い、とても沢山のことを覚えた。
それでもまだ色々と足りてなかったり、良く似てはいるけど全く別物の感情―友愛と慈愛と性愛とか、友情と
家族の情と恋愛感情と劣情―の差が解らず、うまく判別出来ないまま、十三の時に君が僕に他とは違う感情を
抱いていることにだけ気が付いた。
その時点で、軽蔑し切り捨てた方が、当時の僕としては自然だった筈なのに、どうしたらいいか少し悩み、
仙蔵に相談を持ちかけたということは、意味合いや程度はどうであれ、とりあえず君は特別だったことを
意味しているのではないかと思う。
決まった周期で月の物が来ないのも、気分や体調が悪いことが多いのも、あの頃既に心身共に壊れ気味だった
僕にとっては、当たり前のことになっていた。「まさか」という考えがよぎったのは、身の内で「何か」が
動いたのを感じたから。
知識としては知っていた。だけどその可能性を自身にあてはめて考えたことはなく、勘違いだと思いたかった。
だけど、もし本当にそうだったとしたら。違っていたとしても、その可能性がある自分は穢れているんだ。
そうやって考えが発展していき、結果として、僕はアノ晩。水練用の池に向かうことにした。
アレは、自殺や堕胎を図った訳では無く、禊だった。真冬の冷たい池の水なら、汚れきった僕の身体を、
浄めてくれるのではないか。そしてもしもこの身の内に巣食っているモノが居るのなら、同時にソレを
消すことが出来るかもしれない。そんな風に、壊れた頭で考えたんだ。
結局。一命は取り留め、子供を消すことだけは叶ったけれど、この身は穢れたままだった。その次の子は、
自分で気付くか気付かないかの頃に勝手に流れ、三度目と四度目の頃には、まだ正確に日の予測は出来なく
とも、月の物が来ない月は無くなっていたこともあり、自力で気付き、処理する知識も身に着けていた。
伊織がお腹に居るのが判った時。まず反射的に「どうやって消そう」と考え、すぐにその必要はないことを
思い出した。産んでも構わないとは思ったが、産みたいと思った訳ではなく、胎動を感じた時には悪阻とは
違う意味で吐き気がした。それでも、アノ悪夢の産物とは違うんだ。今胎の内に居るのは、僕に想いを寄せて
くれた人の子だ。僕は、アイツとこの子を慈しみ、愛するって決めたんだ。そう、必死で自分に言い聞かせた。
そして少しでも愛着を持つ為に語り掛ける癖もつけてみたけど、愛着なんか殆ど湧かなくて、産んでも愛せる
のか不安だった。頼んでも、一度もお腹の子に語りかけてくれなかった君が、「本当にこの子を望んでくれて
いるのかな」なんて思ってしまったことすら、実はある。
それでも、誰も知らない場所で胎の児のみと過ごした二月の間、僕を支えていたのは、僕の身体などを気遣い、
子供が生まれるのを心待ちにしてくれていた皆からの便りで、夫婦として暮らし始めてからは、君自身。君が
留守の間は、時折訪ねてきてくれる皆と、君の痕跡。僕は君の妻で、この身に宿してるのは君との子供。その
確証がある間は、随分と落ち着いていられた。けれど、ふとした瞬間に混乱が生じ「全ては幻」という錯覚に
襲われると、気が触れそうな位に恐ろしくなった。
それは伊織を産んでからも変わらなくて、あの子を初めて僅かながらでも愛おしく感じられたのは、恐る恐る
抱き上げた君が、僕に礼をいった瞬間。
「ああ。この子は望まれて生まれて来た、私達の子なんだ」
そんな風に感じ、胸のつかえが何か一つとれたような気がした。それでも、伊織は君とあまり似ていなかった
から、自分の置かれている状況が現実か夢かが曖昧になった時の、確証にはならなかった。
だから必死で君の面影を探し、君が伊織に接していた光景を思い出そうとした。幻じゃないんだ。この子は、
間違いなく僕と文次郎の子なんだ。文次郎は、この子を可愛がってくれているんだ。そう、自分にひたすら
言い聞かせた。
その一方で泉は、胎の内に居る時から、それが錯覚だったかと考えることもある程に、腹が目立つことも
無ければ、動くことも稀だった。そして伊織が十日程遅く生まれて来た分か、「バレないように早く産み
落としてしまいたい」という内心を酌み取ったのか、予定より半月も早く産気づき、その分小さかった
おかげで、割合すんなりと一人で産むことが出来た。
当初はきり丸を頼るつもりはなかった。けれど、ちょうど冬休みに入る直前であることに気付き、万一の
時のことを考え、託すことを決めた。
辛うじて誰にも知られずに産むことが出来てから、きり丸が訪れるまでの間は、もしも君が帰ってきたり他の
誰かが訊ねて来たら、きり丸に話したのと同じ内容の話で誤魔化そうと考えていた。その為には、産んだのが
自分だと悟られないようにしなければならず、情を移さない為にも乳は与えない方が良いと解っていた。それ
でも、最初に一度だけは与えたのは、気まぐれか母親としての最後の情か。それは自分でも判断出来ない。
産むことを選んだ時から、「十六夜」という別の女として忍務に従事しているのだと捉えるようにして、
「この子を宿しているのは、私ではない」
「仙蔵に想われ、彼の子を産むと決めたのは、私とは違う女なんだ」
「私の役目は、誰にも気付かれることなく、無事にこの子を産むことだ」
そんな風に自分に言い訳をしていた。だからこそ、泉を産んだ後に立て続けに二度駄目になった時。これは
その報いなのだと感じた。君に対しても、仙蔵にも伊織やきり丸に対しても、泉にもとても酷いことをした。
だから、今度こそ心から慈しみ、愛しいと感じられるようになった子達を、喪わなければならないんだ。
そうやって、密かに己を責めた。
それらの経緯もあって、文多は色々な意味で初めから特別な子だった。まず、流れかけたけれど助かったこと。
腹が明らかに目立ったこと。つわりが軽かったこと。そして、君の子である確信を、一度も失わなかったこと。
雑渡さんと再会したこともあり、君が居ない間に、又おかしな錯覚に襲われそうにはなったけれど、文多の
時には、証をくれる存在が傍に居た。……繰り返し繰り返し、己が名や父の名どころか、
「父様は誰?」
「お前は誰の子?」
そんな風に母親から訊ねられる続けることは、四つに満たない子には、酷なことだっただろう。それでも
律儀に答えを返す伊織に、間違いなく救われていた。
生まれてからは、誰がどう見ても父親似だったから、錯覚に捕らわれることはなく、結局生まれてくることの
叶わなかったその後の子達が胎に居る時も、文多はそこに居るだけで確かな証となった。
最後に喪った子は、既に人の形を成していたが、生きて生まれてくることは出来なかった。
予定より三月程早く、息をしていない子を産み落とした瞬間。最初の、池に沈めた子のことを思い出した。
けれど薄れゆく意識の片隅で、産声を上げることの無かった我が子を悼み、私を気遣う君を捉えたことで、
過去の自分と、殺した子供達が、ほんの少しだけ救われたような気がした。
消すことも、忘れることも出来ない過去は、事実として残っていて、おそらくこの先も、悪夢に悩まされる
ことはあるだろう。それでも、アレはあくまでも過去にすぎないことも、悪夢と君と、その他の人達が全て
違うことも、今はもう解っている。
君が居てくれるなら、もうそれ以上は誰も要らない。君の為ならどんなことにだって、きっと耐えられる。
君を失わないで済むのなら、何だってする。
この想いが、君と過ごす内に芽生えたものか、それとも初めから心の奥に眠っていたものか。それは解らない。
でも、今現在の私にとって、偽りのない本心なのは確か。
だからお願い。早く見付けて?
書きかけの段階で概要を話した友人達に、「それは確かに、具体的に想像するとキツイ」等の反応をもらった代物です。
思い付いた断片を繋げながら書いたので、所々おかしいですが、「家出中の不安定な奥様の独白」ということで
2010.3.18
2010.6.24 一部修正
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