とある城への、長期の潜入任務の最中のこと。
一人の男が、ささやかな息抜きの酒の席で、戯れに
「端女でも口説いて情報を手に入れるか」
と言い出した。
時によっては、それが有効な場合もあるが、今回の忍務に限って言えばそうでもない。
しかし臨時雇いの新入り全員が、女っ気もないようでは不自然であり、ついでに健康上も
あまりよろしくはない。
話を持ちかけた男はそんな言い訳をつけ、この場限りの仲間達も話に乗ったが、一人だけ
それを断った者がいた。
曰く
「それしか手が無いというのでなければ、妻以外に手を出す気はない」
とのことで、その男の名は潮江文次郎といった。
全員が冗談か一時の遊びのつもりで話していたので、大真面目に返した文次郎に、少々
場は白けたが、それを察した文次郎が席を立つと、今度はその発言が酒の肴となった。
「誠に、潮江殿に妻女はいるのだろうか。見た所の年齢よりは若いそうだが、それなら
より一層、そのような甲斐性があるとはにわかに信じにくいのだが…」
一人がふとこんなことを呟くと、他の者も口々に
「あれは単なる言い訳だろう」
だの
「誠に居たとしても、そこまで操立てをする価値のあるおなごなのか」
だのと好き勝手に言いだしだのだが、輪の中の一人だけが、ポツリと「居る」と呟いた。
「しかも、若くて気立てのいい美人の奥方が。…私は以前にも一度、潮江殿と組んだ
ことがあり、その際に、不覚にも傷を負ってしまったのだが――」
*
それは1年ほど前の夕暮れのこと。
居住空間側で伊作が夕食の支度をしてると、診療所側から忍務であと数日は戻って来ない
はずの夫の声がした。
「いさ!」
「ちょっと。もう、何で診療所の方から帰ってくるの。家の方回ってよ」
文次郎が事前に申告した日数よりも、多少前後して帰ってくることは珍しくない。しかし
大抵の場合はちゃんと家の方から入る。そのため伊作が手を止めず、顔も出さずにぼやくと、
妙に切羽詰まった声で怒鳴り返された。
「いいから! 急患だ!」
「状況は?」
それが聞こえるなり、すぐさま伊作は医師の顔で、診療所に向いながら問いかけた。
「半刻前に、矢で射られた。その場で引き抜いて、毒は吸い出したが…」
「その矢はある?」
互いに慣れているので、伊作が言葉少なに問うだけで、文次郎からは的確な答えと
対応が返ってきた。
「ああ」
「貸して。――大丈夫。致死毒ではない。と思う」
矢に塗られた毒を見分しながらも、伊作は運び込まれた男の処置を手早く行っていた。
その、いつもながら鮮やかな手際を信頼している文次郎は、命に別状はないだろうことだけ
確認が取れると、すぐに踵を返した。
「そうか。それじゃそいつは任せた。…明日か、遅くとも明後日には戻る」
「行ってらっしゃい。無事帰って来てね」
おそらくまだ忍務の途中で、相方が傷を負ったので仕方なくここへ運び込みはしたが、
すぐに戻って遂行しなければならないのだろう。それが解っている伊作は、内容に
ついては一切問うことなく、いつもと同じように送り出した。
運び込まれた男の意識が戻ったのは、それから半日ほど経った、翌日の朝だった。
「ここ、は……」
「目覚められたようですね。…気分はいかがですか?」
男が、己の置かれた状況がつかめずに辺りを見回していると、傍で調薬作業をしながら
容態を看ていた伊作が、にっこりと声をかけた。
「…医者?」
「はい。そうですよ。あなたは昨夕、矢傷を負ってこの診療所に運びこまれました」
未だ呆然としている己の呟きへの伊作の答えに、男はにわかに怪訝そうな顔になった。
「どうやって、誰が此処へ? 私を連れて来た方は……」
「ご安心を。2〜3日中には戻るそうです。…貴方と組んでいたのは、私の夫です」
男が危惧しているのが何か―素性を詮索されること、忍務途中であること、文次郎の状況
など―解っている伊作は、笑みを深め、言い聞かせるように男へ語りかけた。
「! 潮江殿の細君!?」
「ええ。正真正銘、潮江文次郎の妻でございます」
目を大きく見開き、口をあんぐりと開けた男に、そういった反応は慣れっこの伊作は、
胸を張り言い切った。
*
「――というわけでな。潮江殿には、確かに妻子が居るようなんだ」
男が、自分の意識が戻ってからのことだけを話し終えると、聞いていた周りの者達は少し
考えるような顔をしてから、口々に問いをぶつけてきた。
「それは、本当に潮江殿の妻女だったと断言出来るのか?」
便宜上、知人や協力者に妻を名乗らせた可能性を、一人が指摘した。
「ああ。潮江殿と瓜二つの子供も居たからな」
世の中には、演技の出来る幼児も居はするが、潮江家の子供に、そういった不自然な様子は
感じられなかったという。
「子供ってのは…」
「幸いと言うべきか、5歳程の男児だった。上にもう一人、10歳かそこらの娘も居たがな」
うっかり文次郎似の少女でも思い浮かべてしまったのか、別の一人が恐る恐る尋ねて
きたのを、訊かれた男は一笑した。
「その家の場所は」
「居所を突き止められると、色々と厄介だろうからな。潮江殿が戻り、私の傷が癒えかけた
頃に、眠り薬を嗅がされ、次に気付いた時には射られた場所に程近い辻だった。…ただ、
山間の村ではなく、どこかの町ではあったと思う」
お互い無所属(フリー)である以上、今回は味方でも、次に顔を合わせる時には敵かも
しれない。そう考えた場合、住処を知られてしまうのは、家族に害が及ぶ可能性があり、
危険極まりない。
それでも運び込み、手当を施させた文次郎は、明らかに妻の影響が―「毒されている」とも
言えるほどに―強いのだが、それに気付けるのは、同じく毒され気味の友人達くらいのもの
だろう。
「毒矢の手当にも長けているとは、何者だ。その奥方は」
続いての疑問は、至極尤もなものだった。矢傷や刀傷に動じない医師―しかも女性―など、
そうそう居るものではない。
「夫君の本職は知っていそうだったか?」
元なり現役の同業者―くのいち―ならば解らないでもない。と一人が問うたが、
「判らん。私も気になって、それとなく訊きはしたが、笑ってはぐらかされた」
その程度で口を割るほど、文次郎も伊作も迂闊ではない。ただし、たった一言
「元はそちら側でしたから」
とだけ零しはしたという。
「私の感じた印象でしかないが、凛とした中に脆さを抱えていそうな女人でな。裏切る気に
ならん潮江殿の考えも、解らんでもないように思う」
それは、あくまでも行きずりの他人の目に映った姿に過ぎない。
それでも、そう映ったことに、幾許かの真実は含まれているだろう。
忍務内容は、汚職探りか何かと、密書運びです。たぶん
そして具体的には考えていませんが、潮江家は居住空間と診療所が衝立で仕切られて
いるか、隣り合っていて行き来できるかの、どちらかのつもりです。
現証拠(げんのしょうこ)…花言葉「心の強さ」 効能は下痢止め。効果がきわめて速やかなことからこの名がある。
2009.2.27
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