「……文次? 久しぶり。私のこと、わかる?」
		「ああ。兄貴の方は?」
		「私達が入った部屋。『折角だから、少し2人だけで話しておいで』って」

		兄の伊作にメールで指示されカラオケボックスの1室で待機していた文次郎は、てっきり2人揃って
		現れるのだと思っていたが、文次郎の部屋の戸を叩き顔を出したのは、妹の伊清1人だった。


		「……仙蔵との縁談が持ち上がっている。ってのは事実か?」

		どう話を切り出したものか少し悩み、文次郎が単刀直入に最も肝心な所から訊き始めると、伊清は
		少し躊躇いながらも「うん」と頷き、それ以上の弁解も説明をせず、下を向いたまま文次郎の次の
		言葉を待った。

		「それは、お前の意思で決めたことか?」
		「そう、とも言えるし、違うとも言える」
		「仙蔵は、お前の好きにして良いといっていたが、どうしたい」
		
		俯き、目を合わせずに答える伊清に、文次郎はなるべく威圧感を与えないように気をつけ問い掛けた。		

		「……わからない。仙の所にお嫁に行くのが、一番上手く収まるって、それは解ってる。だけど、君の
		 ことが忘れられなかった。忘れようって、ずっと思ってきたのに……」

		尚も俯いたまま、ふるふると首を振り、まるで自分に言い聞かせるように、泣きそうな声で答える
		伊清の言葉を聞きながら、文次郎はたった一度だけ、2人きりで出掛けた日のことを思い出していた。

		それは大川学園の卒業目前の、とある週末のことで、
		「1回位、マトモにデートしよう」
		と彼女の方から言い出し、学園から少し離れた街まで出掛け、丸1日中一般的な恋人同士のように
		過ごした挙句、
		「外泊届けは出してあるから泊まって行こう」
		と言われ、面食らったがやぶさかでは無かったので誘いに乗り、最初で最後の一線を越えたのもその時
		だったことはちゃんと覚えていた。しかし、その時彼女が何か言おうとしていたことや、
		「確かな思い出が欲しかったんだ」
		と呟いたことは、今になってようやく、思い出すと同時にその理由を悟ったのだった。


		「……いさ。お前、今自分でどこまで動ける」
		「え?」
		「今すぐ、『連れて逃げてやる』と言ってやりてぇ所だが、リスクがでか過ぎる。けど、俺もお前も、
		 一応もう20歳は越えてっから、法的には親の承諾が無くても出来ることは、山のようにある」

		3年半前のあの日。伊清が口にするのを躊躇った言葉は、おそらく兄の意識が戻っていることと、
		「連れて逃げて」
		ないしは、
		「アノ家から抜け出したい」
		という望みで、しかし18歳の身ではそれが無理に等しいと解っていたから、せめてふっ切る為の
		想い出を欲した結果があの行動だったのだろう。と、文次郎は解釈した。
		そして現在の自分達は、成人はしているので親の許可が無くても働くことや家を借りることが出来、
		結婚すら可能だが、全てを捨てて逃げることは、得策とは言い難い。
		
		「あと半年で、俺はよっぽどのことさえなきゃ大学を卒業出来る筈で、就職のあても一応ある」

		つまりそれまでの間に、両親を説得できないまでも、仙蔵との婚約を正式に破談にさえ出来れば、
		後ろ指を指されることも、生活に困ることもほとんど無い筈だと、文次郎は考えた。そして、後日
		諸々の協力や口裏合わせを頼む為に友人達に話した際も、概ね高評価を得ることが出来た一番の
		ポイントは、「正規の手段を踏むことで誠意を表わすこと」と、「サヤに苦労をさせない」だった。

		「約束する。半年経ったら、俺は絶対にお前を迎えに来てやる。だから、それまでにお前も、出来る
		 限りのことをして闘え」
		「うん」

		誓いを立てた所でようやく、3年半ぶりの伊清の笑顔を見ることが叶ったが、この日は、どうも兄が
		「たまには、兄妹2人きりで息抜きに行きたい」
		とダダをこね、監視役はカラオケボックスの中まで一緒には入らないが、向かいの店から見ている。
		という条件をつけたらしく、制限時間は2時間で、カラオケボックスの外に出ることは出来ない状況
		だった上、ある意味最強の監視役の兄が途中で様子を見に来た為、それ以上は何も出来なかった。
		けれど、その後も文次郎が出向いて来る形で、こっそりと逢瀬を重ねていたある日。

		「文次郎などに協力する義理は無いが、サヤがそれを望むから」

		という屁理屈をこねる仙蔵の元に出掛けると称して家を出て、一旦本当に仙蔵の元に寄って着替えて
		から再び出掛けて文次郎と逢っている所を、複数の患者や看護師などに目撃されて噂になり、ついに
		その噂が親の耳にも入ったのだった。
		すぐさま真相を質され、その噂が事実であることを告げると、相手について訊かれたが、「伊作」の
		大川学園時代の友人である以上のことは一切口を割らず、別れるよう命じられても決して従おうと
		しなかった。
		そんな、娘の今までにない反抗的な態度が気に障った親が、より一層厳しく責め立てても、伊清は
			
		「意識が戻ってから5年以上経っているんだから、精神年齢は最低でも15歳並で、相手は兄さんや
		 仙蔵の友達だよ。面識が出来て、付き合ったって何もおかしいと思われないでしょう?」

		などと挑戦的に応え、

		「仙蔵とは、結婚しません。ちゃんと仙蔵本人にも、立花家の皆さんともお話し、婚約を破棄する
		 ことを了承していただきました」

		きっぱりとそう宣言した。
		実は噂が立ち始めた頃に、先手を打って立花家を赴き、文次郎との関係を明かし、

		「兄から話を聞いていて、実際に初めて逢ったのは大川卒業の約半年後で、兄や仙蔵と一緒の時。
		 付き合い始めたのはそれからしばらく経った頃からで、仙蔵との婚約話が持ち上がった時、親に
		 逆らうことは出来ないと思い、仕方なく一旦は別れたが、やはり忘れ難く、隠れて逢っていた」
		
		と、事実と作り話を織り交ぜつじつまを合わせた説明をし、全ての慰謝料その他の責任は、一生かけて
		でも自分達が負うから。と頭を下げると、仙蔵の父親からは思いの外あっさり
		「仙蔵が認めているなら構わないし、慰謝料もいらない」
		と言われ、元々口約束での婚約のようなものだったので、多少準備が進みつつあったとはいえ、破棄
		するのはそう難しいことでは無かったという。


		その一方で文次郎も、善法寺家側につきとめられる前に、自分から結婚を前提に付き合ってる相手が
		居るが、向こうの親に反対されてるので実家―特に現職の警察署長である父親―、にも迷惑を掛ける
		可能性があることを話したが、当の父親は「その程度気にすんな」と笑いながら

		「にしても、随分と奇特なお嬢さんが居たもんだな」
		「俺もそう思う」
		「念の為、年だけ訊いといても良いか?」

		一応警察関係者として、未成年相手ならば見逃すわけにはいかない。とばかりに訊ねて来た。

		「俺とタメだが、早生まれなんでまだ21。大川の頃の友達の、双児の妹なんだ」
		「そうか。そんなら個人の自由だから、好きにしろ」

		そんな風に、すんなりと認められた。


		結果的に、善法寺家よりも遥かに格上で、更に「家」よりも「個人」を尊重する立花家の面々が、
		婚約破棄も文次郎との付き合いも認めた上、
		「2人のことを認めなかったら、病院も継がないし、事故の事も入れ替わりの事も、全部公表する」
		との兄の脅しや、駆け落ち出来るけど誠意を示すためにあえてしなかったという証言もあったため、
		親も渋々ながら認めざるを得なくなった。
		
		そして、文次郎が就職と大学の卒業が確定してから正式に挨拶に来る前に、伊清は先のことも考え
		アルバイトや資格試験の勉強などを自分の意思で始め、「一人前の歴とした大人」であることを
		アピールしてみたりもしたが、中々親との溝は埋まらなかった。


		それでも文次郎の卒業直後に籍を入れ、金銭的事情と仙蔵との婚約破棄からさほど時間が経って
		いないことから式を挙げなかったら、それはそれで不評。という程度には、母親との仲はマシに
		なったと捉えるべきか、やはり「典型的な女の子の夢」しか見えていないので相容れないのか、
		その辺りは考えない方が良い。と諦められる位には、娘の方が冷静で大人で、

		「要するにあの人達は、私達とは違う次元に生きていて、形は見えても実際には触れないような、
		 月の影みたいな存在なんだ。って思うことにした。もしくは、厚い雲に覆われちゃって見えない
		 お月様。……つまりは、手を伸ばしたり歩み寄ろうとしても無駄。ってことだけど、一応ある
		 ことにはあるし、あって悪いものでもない。って、信じたいんだ」

		ということにしたのだという。





当初の書き直し案は忘れたのでまた直すかもしれませんが、出来婚オチに偏り過ぎてたのも どうかという気がしていたので、ひとまずそこは修正しました 2010.10.31