1.仙蔵


	私は幼い頃、喘息を患っており、定期的に病院に通っていた。
	その病院の庭で見掛けることがよくあった、暗い目をした子供。それが伊作だった。


	病院では、一度も声を掛けたことはなく、向こうから話し掛けられたことも無い。
	しかし、お互い見覚えはあった。

	それでも、同じ中学で顔を合わせた時。私はそれが病院のアノ子であることに気付くまで、
	幾分時間が掛かった。何故ならアイツは、上辺だけの笑顔を絶やさずにいた為、病院の庭で
	見た暗い目の子供とは、結びつかなかったのだ。

	けれど他のクラスメイトとの会話などから、あの病院の息子であることは、割合早くに
	知れた。そしてある時。ふとした拍子に笑顔が消え、ほんの一瞬、ぞっとする程冷たい
	表情を浮かべたのを目にし、アノ子だと確信した。

	だからと言って、それを話題に近寄ったりはせず、あくまでも自然な流れで、単なるクラス
	メイトの1人から、もう少し親しい友人になろうとした。そのことに気付いていただろうに、
	伊作は素知らぬ顔で、他の友人達に接するのと同じように、私に接した。
	




	関係が大きく変わったのは、「友人」になってから1年半ほど経ってからのこと。


	中2の秋に、私のたった一人の理解者だった祖母が亡くなったのだ。


	辛くて、悲しくて、苦しいのに、泣くことはおろか、何の感情も表に表せなかった私の傍に、
	伊作は何も言わずにずっと居てくれた。



	「…伊作」
	「なぁに?」
	「勝手かもしれないが、私は、もう二度とお前以外の前では泣かない。だからお前も、
	 私の前では笑顔を作るのを止めろ。泣いても、喚いても、怒っても良いから、私には
	 素の感情を見せろ」



	通夜から帰ってすぐ。私は、事務的にアレコレ葬儀の手配などをしている親の目を盗み家を
	出て、外から電話で伊作を呼び出した。何故、伊作を選んだのかは解らない。けれど伊作は、
	何も訊かずに私の指示した待ち合わせ場所までやってくると、一言
	「どうしたの?」
	と問い掛け、その後はひたすら堰を切ったようにしゃべりだした私の、纏まりも何もない話を、
	辛抱強く黙って聞いてくれていた。そして、感情の赴くままに話している内に、ようやく涙が
	あふれてきた私の顔を、黙ったまま胸に押しつけるように抱きしめてくれた。
	その胸でひとしきり泣いた後、涙を拭いながら気が付いた。私は、病院の庭で初めて目にした
	日からずっと、伊作が気になっていたのだ。

	伊作なら私を理解してくれるだろうし、私も伊作の力になれる。私も伊作も、共に拠り所を
	持たない、独りぼっちの不安定な存在だから、きっと解り合える。そんな直感が働いたから、
	私は伊作に近付いた。だから私の全てを晒して見せる代わりに、伊作も私に全てを晒せ。
	
	そう要求すると、伊作は哀しそうに笑い、聞こえるか聞こえないかの小さな声で

	「なら、連れて逃げて?」
	「え?」
	「ううん。ごめん。何でもないよ。…ありがとう仙蔵」

	聞こえなかったわけではなく、意味が取れずに訊き返すと、伊作はより一層泣きそうな笑顔で、
	前言を誤魔化すと、私から身体を離した。
		
	「……今は無理。でも、いつか話すから」
	「ああ」

	薄闇の中。私から離れて立っていた伊作が、笑っていたのか泣いていたのかは判らない。
	ただ、この日から伊作は、私の前でだけ不自然な笑みを浮かべなくなった。それどころか、
	上辺は相変わらずにこやかなまま、それとなく他者から距離を置くようになり、高校では
	私以外の友人を作ろうとすらしなかった。

	そのことが、初めの内は嬉しかった。けれど、他人を避けるどころか、怯えているようにすら
	見えかねない過剰反応を示していることに気付いた時。「これではいけない」と思い、知己の
	留三郎や長次を見つけたのを幸いに、彼らを巻き込んだ。

	その頃になってようやく、中学時代から体育の授業を休みがちで、水泳の時期に至っては完全
	見学。夏場もずっと長袖シャツを着用し、修学旅行や移動教室も欠席で、何度誘っても決して
	泊まりでは遊びに来なかった理由を、伊作の口から聞いた。その時見せられたアイツの身体は、
	服に隠れて見えない位置に、無数の傷と、鬱血の痕があった。



	「引き取られた、10歳の時からずっと。でも、子供にしか興味のない人だから、そういう意味
	 では、もう用無しかな。ああ、だけど何か独占欲も強いみたいで、君との関係がバレてから、
	 暴力を振るわれることが増えた。…僕自身は、もう慣れちゃったし、端っから諦めてるから
	 いいけど、君は気をつけて。僕と居るってだけで、何をされるか分からない」

	実際に、隠れて飼っていた捨て犬を殺されたことや、小学生の頃に親しかった相手が、通り魔に
	襲われ大怪我を負ったこともあるのだという。

	「今はまだ、『親しい相手が居る』としかバレていないけど、最近束縛や監視がすごくてさ、
	 突き止められるのも時間の問題かもしれないんだ」

	それでも、私との繋がりを断つ気はない。私の存在は、伊作にとって唯一の支えになっている。
	その言葉を聞いた瞬間から、私は全身全霊をかけて、伊作を護ると決意を新たにした。

	けれど皮肉にも、護ろうとすればする程、伊作の傷は増えた。
	伊作が楽しそうにすることも、幸せになることも許さない。とばかりに、養父の暴力は日に日に
	エスカレートして行き、所有印のつもりか、目に見える位置にも傷をつけるようになったのだ。


	その一方で、「伊作が身売りをしている」との噂を持ち込んだのは、小平太だった。
	七松組の息の掛った風俗店の近辺での目撃証言が、数人の組員からあったのだという。

	半信半疑というより、信じたくはなかった。けれどそれが事実だとすれば、暴力が酷くなった
	ことへの説明がつくようにも思えた。それでも、真実を確かめるのが怖くて、訊けぬまま3年
	になり、卒業式を目前に控えて伊作は失踪した。

	兆候は、あったとも言えるし、無かったとも言える。
	身売りの噂も、頻繁に家出紛いのようなことをするようになったのも、義父から逃れようとして
	のことだと解ってはいたが、まさか私達の誰にも、一言も相談すること無く姿を消すなどとは、
	思いもしなかったのだ。


	ただ、他の連中には話していないが、伊作は失踪の前夜、私に会いに来た。
	身一つで、普段家を抜け出してきた時と、同じような様子で私の部屋を訪ねて来て、普段通りの
	他愛無い話しかしなかったが、その時の伊作は、どこか妙な空気をまとっていた。


	「ねぇ、仙蔵。大好きだよ。ずっと、何があっても。…君も、僕のこと好きでいてくれる?」


	帰り際に発した、この妙な問いが、伊作なりの別れの言葉であり、再会の約束だったのだろう。
	そう気付いたのは、アイツが私達の元に戻って来てからのことだった。


	「ああ。愛しているよ伊作。たとえ何があっても、私はお前の味方だ」

	伊作を表立って護るために、私は弁護士の道を選んだ。そのことを、誰にも―伊作本人にすら―
	教えるつもりはないが、おそらく気付かれているだろう。


	私の祖母の遺した家に身を寄せていたあの夏。伊作は私に「助けて」と零した。
	それは、祖母の通夜の日の言葉よりも小さな声で、呟いた後に何事もなかったかのような顔で
	笑ったが、聞き逃してなどいない。今はまだ、家を貸し匿ってやる程度のことしか出来ないが、
	もっと絶対的な力を手に入れ、お前を護ってやると、声に出して伊作に誓った。


	その誓いは、今も変わらない。私の全ては、伊作を護る為に身に付けたのだと、断言しても良い。





	お前が破滅を望むなら、私も共に堕ちてやろう。復讐を願うならば、完膚無きまでに。
	全て忘れ、無かったことにしたいのならば、決して触れはしない。
	さぁ、伊作。全てはお前の意のままだ。何を望む?
	




2009.5.8