6.滝夜叉丸


	あの人が、素の感情を露わにした様を目にしたのは、後にも先にも一度きり。
	過去に一体何があったのかも、どの様にして今まで生きてきたのかも、私は何一つ知らない。
	知りたいとは思わないし、決して触れてはならない領域なのだと、肌で感じ解っている。


	あの日。14歳だった私は、無知からくる強がりで、あの人の禁忌に触れた。
	ねっとりと絡みつくような口調と、背筋が凍るような冷たい目。そして、呼吸も碌に出来ぬ
	程の恐怖。覚えているのはたったそれだけだが、生涯忘れることは出来ない感覚だろう。




	現実の見えていない母と、人間のカスのような父。そんな家族と生活に嫌気が差し、短絡的な
	発想から犯罪に手を出した私は、悲劇の主人公気取りだった。今の私は、当時の自分のことを、
	そのように冷静に見ることが出来る。けれどあの時の私は、自分がこの世で最も不幸だと思い
	込んでいたし、自暴自棄にもなっていた。


	七松組の敷地に忍び込み、そこにあった僅かな覚醒剤に火を付けた。その間、誰にも見とがめ
	られなかった方が不思議な位の、実に拙いが、それでも住居不法侵入と放火という、歴とした
	犯罪だった。
	火に気付き、母屋から人が出てきた時。私は「これであの家から抜け出せる」と感じた。
	冷静に考えれば、どれだけロクでもない親でも、その庇護下に居る方が、ヤクザに楯つく
	よりも、何倍もマシな生活ができる筈だというのに、悲劇に浸りきっていた私は、そうは
	考えていなかったのだ。


	「こんなものがある所為で」
	「煮るなり焼くなり、好きになさればいいでしょう?」

	そんな言い訳をし、無謀にも啖呵を切った私を、組の幹部の方は警察に引き渡すか、自分達で
	落とし前をつけるのか、親父さんに選んでいただこうとした。けれど、何故か親父さんは私を
	妙に気に入り、通報を受けて駆け付けた消防の人間も「不始末の小火だ」と説明して、すぐに
	帰してしまった。



	「嬢ちゃん」
	「私は男です」
	「そうか。んじゃ坊主。俺はお前の、その物怖じしねぇ態度と、目が気に入った。だから選べ。
	 お前さんがやらかしたことを、全部不問にしてやる代わりにウチの人間になるか、潔くお縄に
	 就くかだ。…女ならなぁ、ウチのガキの嫁に欲しかったくらいなんだが」
	「何だって、お好きになさればよろしいでしょう? 私はどうされようと構いません。警察に
	 引き渡すのでも、私ごとでも中身だけでも売払おうと、こき使うのでも、ご自由に」


	今思えば、何と怖いもの知らずで、粋がった言い草だったことか。親父さんが笑い飛ばして
	下さらなかったら、今頃「五体満足ではいられない」以上の目に遭っていて、命があったか
	どうかすら怪しいに違いない。
	それでも結果的に、私は今も五体満足で七松組に身を寄せており、不本意ながら「姐さん」と
	呼ばれる程になっている。そう認識されるようになるまで、さして時間が掛からなかったのは、
	親父さんと若の、私に対する扱いに因る所が大きいが、端から情報が間違って伝わっていった
	ことも、要因の一つと言えるだろう。

	まず初めに、私に家事を引き継いだ家政婦さんがご家族や知人に話し、そこからさらに
	その知人に伝わっていく内に、憶測なども混じっておかしな噂になっていったようで、


	「小平太。お前が、中坊を誑かしたと聞いたんだが……」
	「私は、中学生の押しかけ女房が居座っていると聞いたぞ」
	「…中学生を孕ませた。と」

	身を寄せ始めてから数日経った頃。若を訪ねて来たご友人達が、口々に自分が聞いた噂について
	若を問い詰めたのだ。

	「ちょっと待てお前ら。俺は、『よくは知らんが、七松組が中学生を引き取ったか何かで、その
	 中学生が家事を引き請けることになったらしい』としか言ってない。お袋から聞いたのはそれ
	 だけで、どこでそんな噂になったんだよ!」

	妙な噂話を拾ってきたのは、潮江さん・立花さん・中在家さんの3人で、それを否定したのは、
	私に家事を引き継いだ通いの家政婦をされていた方の息子である、食満さんだった。


	「こへ、いつから趣旨変えしたの? この子、綺麗な顔はしてるけど、男の子でしょ?」

	妙に投げ遣りかつ、棘を感じる口調で若に問いかけたのが、あの人―善法寺さん―だった。


	「どんな噂になってんだか知らないけど、滝はウチにケンカ売って来て、何でか親父が気に
	 入ったんで、ここにいるだけ」
	「ふぅん。組長のお小姓?」
	「違う! そういうのじゃ全然ないから!」

	ますます冷やかに、吐き捨てるような善法寺さんの言葉を、慌てて否定したのは若だったが、
	その時点で、他の数人も息を飲んだように見えた。しかし愚かで青かった私は、虚勢を張る
	ように、同じ言葉を繰り返してしまったのだ。



	「別に、売られようと何しようと、どうなったって良かったんですけどね」


	その瞬間。場の空気は凍り、善法寺さんは私の顔に触れながら、一瞬顔を歪めると、すぐに
	艶然と哂いつつ、一言一句を言い聞かせるように、私に語りかけてきた。



	「本当の地獄も知らないくせに。…口で言うのは簡単だよねぇ。何? 悲劇のヒロインな
	 つもり? 何にも知らない、お綺麗な『お嬢さん』に、何が解るっていうの? しかも、
	 結局は許されて、のうのうと平和に暮らせることになったんでしょ?」


	蛇に睨まれた蛙のように、何も言えず、うまく息も吸えなくなった私を庇うように、若が
	善法寺さんの腕をとり、私の頬から外してくださった。

	「ちょっ、いさっくん!」
	「何こへ? 言っとくけど、先にケンカを売ってきたのは、その子の方。その子が軽々しく
	 口走ったことが、どれだけ怖ろしく、どれだけ辛くて、たとえ逃げだしたくても、決して
	 逃げられないものなのか。そんなの、何も知らないんだろう?」

	掴まれた腕をそのままに、若にしな垂れかかるように言い返した善法寺さんの、嘲笑うようで
	いて、同時に蔑むような表情と、鋭く冷ややかでありながら、何も映っていない虚ろな目が、
	怖ろしくてたまらなかった。


	「……」
	「伊作は私に任せて、後はお前がどうにかしろ小平太。……やはり、連れて来てしまったのが
	 間違いだったか」


	冷たく虚ろな目で、壊れたように嗤い続ける善法寺さんに、誰も何も言えずに立ち尽くして
	いると、溜息を一つ吐いてから、立花さんが鳩尾に一発入れて気を失わせ、若に一言残し、
	抱きかかえるようにして、別室に連れて行ったようだった。



	
	「悪い。今のは完全に俺の落ち度。…いさっくん、仙ちゃんだけで大丈夫かな?」
	「大丈夫だろ。てぇかあそこまで行くと、仙蔵以外が居る方がヤバいんじゃねえか」
	「俺も同感。だから、あいつらが戻ってくる前に、こっちもどうにかした方が良いだろうな」
	「うん。…‥滝」
	「は、はい。何でしょうか」


	立花さんが善法寺さんを連れて出た後も、まだうまく呼吸が出来ないでいた私は、若に声を
	掛けられてようやく、身体の強張りが解けたような気がした。


	「詳しいことは言えないけど、いさっくんの前でも、他の連中の前でも、二度とああいうのは
	 口にすんな。親父は笑い飛ばしてたけど、俺もそういうの嫌いだし。……解ったな?」
	「……はい」

	若の真顔を見たのも、あの時が初めてだったように思う。





	時が経ち、年齢を重ね、様々な人と出会い、色々な経験をする内に、私は自分が、いかに未熟で
	驕った子供であったのかを知った。そしてまた、いかに恵まれた状況にあるのかも。だからこそ、
	あの日触れた狂気を、二度と忘れはしない。たとえ、それが償いの意味を成さずとも、それしか
	私に出来ることは、おそらく無いのだから。

	



2009.5.10