7.雑渡 こんなこと言うのもアレなんだけどね。私はさ、自分の顔を焼いたのが誰だったか、今も全然 わかんないんだ。ちなみに、心当たりが無いんじゃなくてその逆。有り過ぎてわかんないの。 会社と私個人の、どっちに恨みがあったのか。いつの何が原因か。逆恨みなのか、それなりに 妥当な恨みなのか。その他諸々、突然硫酸ぶち掛けられても「ついに来たか」としか思わない 位のことは、たっぷりとしてきてたからねぇ。しかも、チンピラ上がりで、悪名高き「黄昏時 金融」の社長の右腕を、あの当時でもう20年近くやってたわけだから、買った恨みなんか逐一 全部覚えてるわけないし。 解ってるのは、無差別ではなく私―雑渡昆奈門―を狙ってやったっぽいことと、すれ違いざまの 出来事だったこと。犯人はそのまま走り去って、誰も捕まえなかったらしいこと。それだけ。 雑然としてて、いかがわしい空気の漂う夜中の路地裏で、普段は自分以外の周囲なんか、誰も 気に留めやしないような場所だったけど、流石にそんなことが起こった時は、騒然となってた。 一応「被害者」って奴は自分だし、顔は痛くて熱かったけど、さっきも言った通り、ある意味 当然の出来事だったから、割と呑気に「この地区の闇医者って、かなりヤブの筈なんだよなぁ」 みたいなことを考えながら、とりあえず周りは放っておいて歩き出そうとしたんだ。そしたら、 頭から何かまた大量の液体を掛けられた。…って、ただの水なんだけどね。大きめのバケツで 水道水を掛けられたんだ。 「今更だとは思いますけど、応急処置代わりに」 バケツを手に、私の目の前に立っていたのは、澱んだ空気の似合わなそうな少年だった。 その少年―伊作くん―は、私と目が合うなり、一言だけ残し姿を消してしまったけれど、 後から探し出すのは簡単だった。 「寺育ちで、『目の前に困ってる人が居たら助けなさい』って教えられましたから」 数日後に見つけた時には、別の客が付きかけてたから、それを「倍額出すから」と邪魔して、 買った以上は相応のことをさせてもらってから、あの日のことを訊くと、そっけない返事が 返ってきた。…やっぱり、こんな澱みきった町も、やっていることも、何もかもが似合って いないよ、君。 「良いんです。この方法が一番お金になるし、意趣返しにもなりますから」 言葉だけなら自棄っぽくも聞こえるけど、淡々とした口調と、少しだけ微笑った顔には、 何某かの意志が垣間見えた。それで気になったんで、色々訊き出してから冗談めかして 「攫ってあげようか?」 なんて言ってみたら、その時は「結構です」って断られた。だけど、その後も頻繁に―他の 客が付く隙もない位に―彼を買い、その度に「私のものにならない?」「好きなことさせて あげるよ」「他の奴が君に触れるのが嫌なんだ」などなど、しつこく口説き続けていたら、 面倒臭くなって折れただけなのか、私の空言の中に、何か心惹かれるものでもあったのか、 誘いに乗ってくれたんだよね。 その後、大学にも行かせてあげたし、義弟くんのことも引き受けて、店も持たせてあげた。 もうねぇ、部下にも呆れられてるし、自分でも「何でここまで?」とか思わなくもない位、 私は伊作くんにベタ惚れで、甘くって、どんなおねだりでも叶えてあげるつもりなんだけど、 伊作くんは結構自分自身のことには無頓着だし、欲も少ないみたいなんだよね。 ただ、長年私に飼われてる内に、ちょっと変わってきたかな。 ねぇ、伊作くん。君、いつから、そんなあばずれになったわけ? 「さて、いつでしょうね。捨てられないように必死だった、いたいけな僕を面白がって、色々 仕込んだのはアナタでしょう?」 まぁね。それにしても、何かどんどん可愛げってものが無くなってきてるよねぇ。 「そうですか? これでも、精一杯アナタに尽くしているつもりですけど」 そういう返し方がね、可愛くないの。あとさぁ、私が居ない間に、他の男銜え込んでるでしょ。 「おや、バレていましたか。…最近あまりいらっしゃらないもので、足りないんですよね」 ふぅん。言うようになったねぇ。そんな風にしたのも、私だって言いたいのかな? 「そうだと思いますよ。義父の相手をさせられていた時は、まだ子供でしたし、一方的な行為 だけでしたから、快楽を教え込んだのは、間違いなくアナタです」 ああそう。所で、私がこう見えても独占欲強いのは知ってるよね? 「それはもう、嫌という程に」 じゃあさぁ、お仕置きしてもいいよね? 顔は、結構気に入ってるから、腕の一本くらいは いっとこうか。 「腕や指は、調薬が出来なくなるので、まだ顔の方がマシですけど」 ああ、そうか。じゃあ、アバラかなぁ。…次は無いと思っといてね。 「ええ」 板に付いた笑顔だね。そんな物分かりの良い返事しときながら、素直に従いやしないだろう ってのは解ってる。今や、君のことなら何でも解ってるんだよ、伊作くん。 だからね。君が私を嫌いな事も、ちゃんと知ってるよ2009.5.11