8.文次郎 俺は何時、何処で、選ぶべき答えを間違えたか解っている。 けれど、それならば何を選べば正しかったのか。それは、未だに解らない。 元々、俺にとって伊作は「知人」もしくは「知り合いのダチ」でしかなかった。 とりたてて仲が悪いとまではいかなかったが、俺等の住む町に越して来て開業するまでは、 他の連中を介しての、間接的な付き合いしかないような顔見知り程度で、失踪したことを 聞かされた時も、確かに多少驚きはしたがそれ以上は何も感じなかったし、正直アイツの 抱えていた事情も、ほとんど知りもしなければ、興味もなかった。 それは、アイツが戻って来てからも、あまり変わっていない。たとえどんな事情があろうと、 そのことと本人の気質は直接は関係ないと思っているし、他の連中だって色々あるが、特に 気にしないようにしている。…でなきゃ、仮にも現職刑事でありながら、ヤクザの跡取りと ダチでい続けるわけがねぇだろう。 学生時代と変わったのは、町中で単独で顔を合わせることが増えたことと、それに伴い直接 話したりなんだりすることも増え、「友人」と呼べる付き合いになった程度。あとは、医者 ではなく薬屋の癖に、やけに手当てが手慣れている上に巧いんで、多少の傷なら自分でやる よかマシなんで、たまに頼むようになった。これは、意外とでかい要素かもしれない。 逆上した犯人に腕を斬りつけられ、応急手当だけされて「あとで病院に行け」と言われたが、 自分では、そこまでの傷だとは感じなかったので、いつも通りに伊作の所で済まそうとした。 しかし生憎と店の方は閉まっていたので、留守かどうか確かめようと裏口に回ったところで、 アノ雑渡とかいうオーナーと鉢合わせした。あの時。すれ違いざまに、アノ男が俺を見て口を 歪ませた時点で、俺は引き返すべきだったのかもしれない。 客が来ていた以上は、居るのだろうと解釈して、「邪魔するぞ」とだけ声をかけて、部屋に 上がり込んだ俺が目にしたのは、気怠い雰囲気を漂わせ、至る所に付いた紅い痕を隠す気の 全くない伊作の姿だった。 「何の用事? 悪いけど、今ちょっと動くの億劫だから、大した用でないなら明日以降にして」 普段は愛想の良い伊作の、心底不機嫌そうな声と態度に、どう反応したら良いのか解らなかった 俺は、「邪魔したな」とすぐにその場を立ち去り、仕方ないので傷は病院まで行った。けれど、 目にした姿の衝撃が数日経っても頭から離れず、まずは、伊作本人に問い質して良いものかを 悩み、かといって、他の何か知っていそうな連中に訊く気にもなれずに、結局酒の力も借りて、 本人から訊き出す覚悟を決め、再び奴の部屋を訪れた。 「僕はオーナーの囲い者だよ。知らなかった?」 意を決して訊いた俺に、あっけらかんと答えた伊作の様が、何だか腹立たしかった。 「高校時代からで、君以外はたぶんみんな知ってる筈。だけど、本当に気付いてなかったの?」 実を言えば、薄々気付いてはいた。身売りの噂や、小平太の所に平が来た時の、あの態度。 義弟の三反田や仙蔵の、雑渡に対する敵意。その他色々とある心当たりを併せて考えれば、 おのずと辿り着く答えだからな。 「……お前は、それで良いのか?」 何故、そんな言葉が口をついて出てきたのかは解らない。しかし、俺なりに「善法寺伊作」 という人間を気に入っていて、その上で、アイツの身を案じたからだと考えている。 「じゃあ、君が相手してくれるっていうの? 僕だって、好きでこんな生活してるんじゃない けどさぁ、長年そうやって生きてきたから、今じゃもう、誰か居ないとダメなんだよねぇ」 目の前が、真っ赤になった気がした。こっちは心配してやってんのに、その言い草は何だ。 そんな風に感じた自分が、一体何をしたのか。正確には記憶に残っていない。けれど俺は、 挑発に乗る形で、無理矢理アイツを―伊作を―組み敷いた。それだけを覚えている。 そしてそれ以降の記憶は、激昂して俺の家まで押し掛けてきた仙蔵に、横っ面を力の限り張り 倒された所まで飛んでいる。確かに多少酒が入っていたとはいえ、その間数日空いているにも 係わらずだ。 何でも、伊作があばらを数本折る程の怪我をしたってんで、その理由を訊ねたら 「んー。文次誑し込んだのがバレてちょっとねぇ。オーナー、あれで結構嫉妬深いみたい。 え? 『何でそんなこと』って? 成り行きっていうか、売り言葉に買い言葉で。仙にも 同じようなこと言ったことあるけど、相手してくん無かったよね」 などと返したんだそうだ。 挑発して来たのは向こうだ。と言い訳はしたが、「だとしても、お前が悪い。死ね」とまで 言われ、もう一度手加減なしに殴られた時に、理不尽だとは思ったがやり返さなかったのは、 無意識であっても罪悪感があったからなのかもしれん。 その後。伊作自身は、何一つとして責めるような態度は見せなかった所か、普段は何もなかった かのような、それまでと同じ接し方しかしてこない。けれど、ふとした拍子に、あの時のことを 楯に、関係を強請るようになり、それが今も続いている。 アイツの真意など解らない。解りたくもない。ただ俺は、あの時どうすべきで、今後どうして いくのが正しいのか。後悔だけが増すばかりで、未だその答えは出そうにもない。2009.5.11