約9ヵ月に亘る家出騒動が終結し、伊作(と子供達)が帰ってきて2ヵ月。
積年の反省を元に、結婚記念日に欲しい物なりやりたいことはあるかと、数日前に文次郎が尋ねると、
伊作はニッコリと笑い
「文次の会社の近くで、家族みんなでご飯」
という、妙に控えめな希望を口にした。
「それだけでいいのか?」
「うん。お楽しみは、自分の誕生日に取っておくことにしたから」
考えてみると、結婚記念日の後にも、数馬の誕生日とホワイトデーと伊作自身の誕生日とが、ほぼ半月置きの
頻度で控えているので気が抜けないが、些細なことでも充分そうな伊作を見ていると、それすらほったらかし
にしていた自分の不甲斐なさを文次郎は痛感した。
そんな訳で文次郎は、部下であり義弟に当たらなくもない三木ヱ門や同僚などから、会社周辺のおススメの
飲食店を訊き出し、当日は極力早く上がれるよう仕事を片付けていると、受付から内線で来客を告げられた。
「伊作? 悪い。もうそんな時間だったか?」
仕事に集中していると時間を忘れることもある文次郎が慌ててロビーに向かうと、子供達を連れ、普段より
少し綺麗な格好をしている伊作は、申し訳なさそうに微笑った。
「ううん。大丈夫。お父さんの会社を見せてあげたくて、少し早めに来ちゃっただけだから、気にしないで」
待ち合わせは、終業後に会社の最寄り駅の改札前でだったが、折角なので。ということらしい。
7人も―しかも上の子達は結構大きい―子供を連れた美人が現れ、しかもそれが経理の「鬼の潮江」の妻子
らしい。ということで、話を聞きつけた若い社員達が騒ぐ中。一人黙々と仕事を片付けている20代後半の
青年に、噂話をしていた同期の女子社員が
「斉藤くんは興味無いの?」
と尋ねると、彼―斉藤三木ヱ門(27)―は端的に「知ってたから」とだけ答えた。
「どういうこと?」
「その美人の奥さんの弟が、僕の姉の夫。だから、一応それなりに面識があるんだ」
打ちこんでいた書類から目も上げずに説明し、ついでに今日が潮江夫妻の結婚記念日らしく、これから家族で
食事に行くことになっていると、姉滝夜叉丸から聞いたことも付け加えてやると、同期の女子社員はすぐに
その情報を、他の騒いでいる連中に伝えに戻った。
尚、余談になるが、この日の終業後三木ヱ門は、同期他の―主に女子―社員に「おごるから」と飲みに連れて
行かれ、潮江一家および自分と姉についての話を、洗いざらい吐かされた。そして、後日その情報から課長に
色々と訊いてみても、休憩中や仕事の手を止めさえしなければ、渋々答えてくれて意外だった。というのが、
しばらくの間、女子社員達のランチタイムの一番の話題になったりもしたとか。
そんなこんなで終業後。小洒落た店は、似合わないし下の子達を連れて行くには向かないし、高価くつく。との
ことで、三木ヱ門の同期などがランチタイムによく利用しているという、家庭的な洋食屋に連れて行き―周りの
迷惑にならないよう、少々叱りとばしたりはしたが―、滅多にない家族全員での外食を楽しんだ。
「数馬、左近。駅まで連れ行ってやれば、お前らだけで帰れるか?」
食後。店を出てから文次郎がそう上の子―左門を除いたのは、もちろん故意―に確認すると、2人からは
可能だとの答えが返ってきたので、駅で切符と、念の為最寄駅から家までタクシーが使える程度のお金と
伊作の携帯―潮江家の子供達は、「携帯は中学を卒業してから」ということで誰も持たされていない―を
渡して帰した。子供達が乗った電車が行ったのを確認した後。伊作が文次郎に意図を訊ねると、
「いいから、とりあえずついて来い」
と返され、まず向かった先は宝石店で、そこではクリスマスにもらった結婚指輪をサイズ直しに出した。
次いで向かったのは―会社からは少し離れているので、同僚や部下とは遭遇しにくそうな―、文次郎の
行きつけらしき飲み屋だった。
「お前、20歳になった時にはもう数馬が居たから、外どころか家なんかでもほとんど飲んだこと無いだろ?
なのに俺は、結構飲み歩いてっからたまには……」
どうもコレが、ここ数年記念日類を飲みですっぽかした分の、文次郎なりの埋め合わせなのだろうと伊作は
解釈した。その提案には少し心ひかれたが、伊作の身内は父の長次と兄の留三郎はかなり強い方だが、姉の
仙蔵と弟の小平太はさほど強くない上、飲んだ経験がほぼ無い為自身の傾向が判らないので、
「うーん。まぁ悪くないけど、今日はお酒買って帰って、家で飲まない? どれ位飲めるかとか、飲むと
どうなるか判んないし」
と返し、更に伯父の新野の家が近いとはいえ、子供達だけで留守番をさせるのは不安だと付け加えると、
文次郎もそれをもっともだと思ったので、結局この日は途中でチューハイやワインや缶のカクテルなどを
数本買って帰り、まだ起きていた子供達を寝かしつけた後、伊作がつまみを作って飲んだ。その結果
「外で飲ませなくて良かった」
と文次郎が本気で思うほど、伊作は酒に弱く、かつ酔い方がやけに可愛らしくて色っぽいことが判明した。
その為文次郎は「身内の前でも飲むな」と伊作に命じたが、その後うっかり身内の集まりで勧められて飲み、
酔い方を目の当たりにした兄姉などからも、禁酒命令が出される程の威力があったという。
ここからは少々余談になるが、少し時間を戻して帰宅中。文次郎は1つ気になっていた点を伊作に訊ねた。
「……何をたくらんで、ガキ共連れて早めに来たんだ?」
「何って、だからお父さんの会社を……」
「別に見ても面白いもんじゃねぇし、数馬や左近は来たことあるし、お前本当は、ああいう公私混同みたいな
ことは、好きじゃねぇだろ」
実は上の子達は、届け物などで1度か2度は文次郎の勤め先を訪ねて来たことがあり、下の双児2組は、まだ
見学した所で意味は無い位の年である。故に、文次郎の言い分は正しかった。
「……。先週ね、タレコミ電話があったんだ。『お宅の旦那さん狙いの、困った若い子が居る』って」
「は? んな悪趣味な奴、お前以外に居るのか?」
軽く目を反らして答えた伊作が、何を言っているのか文次郎にはよく解らなかった。
「…それ、自分で言っちゃうんだ。けどまぁ、そこは置いといて、……えっとね、その電話に依れば『冴え
なかったり嫌われ者系のオジサンに、ちょっと優しくして良い夢見せてあげて、色々貢がせる』みたいな
感じの、性質の悪い子に狙われてたらしいんだ」
「そいつは、うちの課の奴なのか?」
突拍子の無い話だが、事実だとすればそんな部下が居るのは、自分狙いで無くても嫌だと思った文次郎が
一応訊ねると、伊作は首を振った。
「ううん。余所の課の子みたい。君の所は、三木くんも、結婚騒動や子供達が生まれた頃のこと知ってる人も
何人かは居るから」
「ああ。まぁ、そりゃ確かにな。…にしても、そのタレコミに信憑性はあんのかよ」
相手に一体何の目的があるのかは知らないが、容易に信じるのはどうかと思う内容だろう。と問うと、伊作は
きっぱりとした口調で根拠を上げ始めた。
「まず、うちの番号と、僕らの存在を知ってたけど、その辺を知ってるのって、結構古参か情報通か君の課の人
位しか居ないと思うんだよね。で、更に『総務の山本と申しますが』って名乗ったんだ、その人」
以前文次郎は何かの機会に、自社の都市伝説的な話を伊作に教えたことがある。それは2人の社員に関する
話で、1人は「小林部長」といい、普通の―若干窓際っぽい―温厚そうな初老の男性社員で、食堂や談話室
などで顔を合わせたことのある社員は多数居るが、どこの課の人間なのか誰も知らないのだという。そして
もう1人が「総務の山本さん」で、彼女は一見すると精々30代後半位の美女だが、創業―来年だか再来年で
40周年を迎える―当時から勤めているとの噂があり、少なくとも文次郎が入社した16年前には、既に現在と
まるきり同じ姿で在籍していたという。
つまり、元から知っていたにしても調べたにしても、文次郎の家庭について知っており、「総務の山本」を
名乗った以上は、偽物にしろ本人にしろ、ただの悪戯とは考え難い位手が込んでいることになる。
「でさ、僕がその『総務の山本さん』のことを知ってたのは、聞いたことがあったからだけど、知らなかったら
山本さんを騙る意味は無いじゃない。だから、多分本物だと思ったんだ。それに、たとえタレコミがウソだと
しても、君が独身のモテないオジサンだと思われてるのは前々からあんまり良い気がしてなかったから、姿を
見せれば三木くん辺りが、説明してくれるんじゃないかなぁ。…って」
実際、伊作が望んだ通りの展開になったわけだが、上目づかいでそんな風に言われた文次郎は、
「ここが公共の場(電車内)でなければ……」
などと思ったという。具体的に何がどうとは、あえて言わない。というか、馬鹿馬鹿しいので言う気にはならないが。
無自覚バカップル夫婦・結婚記念日編
てな所ですかね。
正直、心境は「勝手にやってて。ただし、僕らの見えない所で」な数くん辺りと同じなので、直接的には
そんなに甘くしなかったんですが、それでも空気が甘ったるいんで、書くの疲れました。
……とか言って、実は一番書きたかったのは「総務の山本さん」とか言ったら怒ります?
2010.2.7
戻