文次郎と小平太が、「来ても良いぞ」と伊作が身を寄せている立花家の別荘に初めて招待されたのは、
		中等部2年の夏休みのことだった。ちなみに残る2人は、長次は別荘の場所を知っており、留三郎に
		至っては近くの旅館が実家で、伊作はそちらに滞在していることにしてあったので、以前の長期休み
		から、滞在はしないが土産持参で顔を出したりはしていた。

		そんな訳で、一応全員一旦は実家に帰省し、6人全員が揃ったのは8月に入った頃のことだった。



							△


		新参者な2人に仙蔵から渡された地図には、留三郎の実家の旅館から別荘までの道しか記されて
		おらず、旅館へは最寄駅から民営のバスで行け。との指示が書かれていたが、後になって仙蔵や
		伊作だけでなく、長次も駅から連絡すれば、留三郎の家人が迎えの車を出してくれていたことが
		判明し、文次郎から盛大な文句が出たが、仙蔵も留三郎も聞き入れなかった。ちなみに、駅から
		旅館まではバスのルートの関係で20分程かかり、旅館から別荘までは徒歩で軽く30分はかかるが、
		駅から直接車を使えば10分程度の距離で、留三郎は基本的に自転車で移動しており、滞在中の
		食材等の買い出しも、当初は食満家の人に頼んで車を出してもらったりもしていたが、途中から
		自転車で留三郎や文次郎などが行かされるようになった。

		閑話休題。ともかく、最初に別荘を訪ねる為に地図を見ながら歩いていた文次郎は、留三郎の
		実家の旅館は名前も聞いていて間違いないとはいえ、そこからの道が正しいのか途中から若干
		不安になっていた。何しろ「閑静な別荘地」と言えば聞こえが良いが、周囲に殆ど民家らしき
		ものどころか店なども見当たらず、どんどん林の中に迷い込んでいる可能性も否めないような
		風景ばかりが広がっていったのだから無理もない。しかし、一応かなりキチンと舗装された道
		ではあるので、その先には立花家の別荘では無くても、何かしらあるだろうと信じて歩を進め、
		どうにか辿り着いた民家の表札を確認し、そこが紛うことなき己の目的地であることを確かめ
		呼び鈴を押した文次郎を迎えたのは、
		「遅い」
		という仙蔵様の一言だった。


		「遅いぞ、馬鹿もん。お前が最後だ。今日中に来ると言っておきながら、夕方過ぎになるとは、
		 どこで何の道草を食っていた」

		眉間にしわを寄せ、偉そうにマシンガントークで文句を言う仙蔵に、文次郎が言い訳を返す前に

		「まぁまぁ、仙ちゃん。電車やバスの時間とか、初めての場所に行くのは時間が掛かるものだし」
		「……伊作?」
		「うん。えっと、半月ぶりだね。元気にしてた?」

		背後から仙蔵を取り成すように宥め、ひとまず文次郎を別荘内に招き入れた少女は、地毛―少し茶色
		掛かったくせ毛のショートカット―よりも少し明るい色のセミロングのカツラに、パステルカラーの
		ワンピースとカーディガンという格好をしており、パッと見では分かり辛いようで、割と普段の伊作の
		面影を残していた。

		「この馬鹿も小平太も、夏バテなどするわけがないだろう。部屋は、他の連中の隣の空き部屋で良いな」
		「別に、部屋なんかどこだって構わねぇよ」
		「ダメだよ文次。そんなこと言うと、掃除して無い物置とか、こへや留さんと同室にされちゃうよ」

		一応案内するように先導し出した仙蔵に、文次郎がどうでも良さそうに返すと、妙に楽しそうな口調で
		伊作が、茶化すように笑って忠告してきた。
	
		「何を言うか。そんな、逆に面倒が増えるようなことを、するわけがないだろう」
		「……そういう問題なんだぁ」

		心底心外そうな仙蔵と、苦笑する伊作のやり取りが、文次郎にはまるでじゃれているように見え、
		何故か何となくムカついたので、話題を反らすように
		「俺が最後ってことは、他の連中はもう来てんだよな。今どこに居るんだ?」
		と訊いてみた。

		「長次とこへはラウンジに居て、留さんは実家の方に、夕飯の材料分けてもらいに行ってるよ」
		「お前の到着時間が分からない所為で、夕食の量の判断がつかなかったからな。お前の分は無くても
		 文句は言わせんぞ」

		そう言われて、文次郎はようやく仙蔵の文句の理由の一部が見えた気がした。そして、特に何をする
		わけでもないのに、伊作が仙蔵と共に自分を出迎え、部屋への案内にも同行しているのは、緩衝材的
		役目の為なのだろう。と解釈した。


		そんなこんなで6人全員が合流し、多めに作ったのでちゃんと全員分あった夕食を済ませた後の雑談中。
		小平太の
		「そういや、ここに居る間、いさっくんのこと何て呼べばいいんだ?」
		との疑問から、偽名を考えることになった。

		「こないだ水着買いに行った時とか、何度か遊びに行った時は、とりあえず『いさちゃん』て呼んでた
		 けど、それでいいのか? それとも本名?」
		「えっと、本名は音も字も特殊で、この辺りには知り合いも居なくは無いから、それよりは『いさ』の
		 方が無難かなぁ」

		何しろ、元々定宿だった留三郎の実家の旅館が近い為、他の常連客と遭遇する可能性は高い。そんな風に
		伊作が説明すると、ならば「伊作」及び本名―「伊清」と書いて「イザヤ」―を連想させる「いさ」や、
		かつて呼んでいた本名由来の「さや」という仇名も微妙ではないか。などと仙蔵や留三郎が言い出した。
		すると

		「……エリヤ」
		「え?」
		「『イサク』も『イザヤ』も旧約聖書由来で、『イザヤ』は預言者の名だろう? それなら、同じ
		 旧約聖書の預言者の名で、『エリヤ』という偽名はどうだ」
		
		他の皆のやり取りを眺めていた長次が、ボソリとそんな提案をした。

		「えっと、その、確かに私達兄妹の名前の由来はそれで合っているけど、イザヤでさえ実は結構畏れ
		 多かったりするから、それはちょっと……」
		「えー。何で? おれは由来とかよく解んないから、結構可愛くて良い名前だと思うけど」
		「確かに、意味とか考えなかったら、音は可愛く聞こえるな」		
		「そのまま『エリヤ』呼びが心苦しいなら、普段は『エリ』とでも呼ぶようにすれば良いだけだろう?」
		「まんま使っても、普通の奴は気付かねぇと思うぞ」

		長次の案に、恐縮して反対したのは本人だけで、他はむしろ積極的に賛成ムードだった為、なし崩しに
		長期休み中の偽名は「エリヤ」ないし「エリ」ということで決定してしまったが、学期中に学内で話す
		際の隠語としても使用出来た為、案外便利だということで、本人も割と早い内に受け容れることにした
		のだった。



							△



		こうして偽名も決まり、食事が自炊なこと以外は殆ど寮での生活と変わらないようで、やっぱり女装や
		女言葉の伊作を新鮮に感じたりしながら、夏休みは過ぎて行き、これ以降の冬休みや春休みも―仙蔵の
		用意する服やカツラの値段や質がどんどん上がって行く以外は―、さほど大きな変化は無く、休み中に
		息抜きが出来るからか、学期中も伊作は、徐々に状況を楽しんでいるように見えなくも無くなっている
		ように、友人達の目には映っていた。けれど、目に見えぬ変化が、ほんの少しずつ起きていた。

		それが発覚するのは、まだ少し先の話。



続く


ちょっぴり時間は飛んだけども、やっぱりまだ説明部。 本名と偽名は、一応決めて出したけど、今後は殆ど出て来ない……筈です。 2010.7.16