〜中在家兄妹〜  ※誕生日捏造

	12/24の夕方過ぎ。新野家で、クリスマスパーティーの準備をしている最中。細かい飾りつけは
	子供達に任せた留三郎が、同じく自分の分担を終え、暇そうにしている仙蔵に声を掛けた。

	「仙蔵。お前の所の双児が『お母さんがクリスマスに貰った一番嬉しかったプレゼントは、お姉ちゃん
	 なんだって』と言っていたのを、色々経由して聞いたんだが、ソレ母さんのパクりだよな」

	何気なく兄に、先日の娘達からの問いへの返答の出所を指摘された仙蔵は、少しバツの悪そうな顔をした。

	「……覚えていたか」
	「そりゃ、お前が覚えてんだからな。確か小平太が生まれた年の話だから、訊いた伊作本人は覚えて
	 無いだろうが、プレゼントを見つけてはしゃいで訊いた時の、母さんの返答の応用だろ?」

	実は、31年前のクリスマスの朝に、3歳前の伊作が母親に訊いた問いが、先日の仙蔵の娘達の問いと
	ほぼ同じようなもので、その時の答えは
	「うーんと、仙ちゃんかな」
	だった。そのことを、一応年子とはいえ春生まれの留三郎と冬生まれの仙蔵では、実際の年の差は1歳半に
	なるため、5歳になったばかりの仙蔵が覚えていた以上、7歳前の留三郎だって覚えているに決まっているのだ。

	ちなみに母の答と、仙蔵の答で違うのは、母の方には
	『うちに来たのは、ちょっとのんびり屋さんか、おっちょこちょいなサンタさんだったみたいでねぇ』
	と付け加えられていたことで、仙蔵の誕生日は12/26なので、もし藤内があと1日遅く生まれていたら、
	誕生日プレゼントの方に応用していたんだろうな。などと留三郎は考えているらしい。




〜鉢雷(母子)〜 「すごいだろう。不可能の代名詞とも言われる青いバラで、しかも保存状態さえよければ、  10年以上も持つらしい」 「……」 息子の三郎が物心ついて以降。雷蔵は幾度となく 「何で、生まれる前に死んだ父親そっくりなんだろう、この子は」 などとデジャヴを感じてきた。 そして今もまた、三郎が差し出したクリスマスプレゼントを目の前に雷蔵は、呆れるのを通り越して眩暈を 起こしそうな心境だった。 「どうした雷蔵?」 「その昔、お前の実の父親から、まるきり同じ物を、似たようなセリフと共に貰ったことがあるんだ」 今年高校2年生の息子から贈られたのは、中学3年生だった18年前に、同い年の従兄兼恋人から 貰ったのと同じ、ガラスケースに入った青いバラだった。 「不可能の代名詞の『blue rose』で、しかも手入れをキチンとすれば、かなり長期的に持つ。  私の君への想いを表すのに、これ以上の物は無いだろう? だから、大事にしてくれよ、雷蔵」 かつて恋人だった三郎―息子には同じ名をつけた―に、そんな言葉と共に贈られたプリザーブドフラワーの バラは、「ほんの数年でうっかりダメにしてしまいそうだ」との、周囲の見解を裏切り、未だにひっそりと 雷蔵の部屋の奥にしまわれていたりする。 「私の父親って、享年15歳だろう? その年でそんな気障なこと……」 自分の言動を棚に上げ呆れる息子に、雷蔵は開き直った笑顔を見せた。 「……ちょうど、お前がお腹にいた年のクリスマスのことなんだけど」 それから2月足らずで、とある事件に巻き込まれるように命を落とした父三郎は、実は早々に子供が 出来たことを知っていて、その上で 「堕ろせなくなる時期まで、気付かなかったことにしておけばいい」 と入れ知恵をしてまで、その子を産むよう望んだ策士だったりする。
〜斉藤兄妹〜 父さんに引き取られ、タカ丸兄さんが来日したのは、19年半前。私がまだ10歳になったばかりの、春のこと。 そのすぐ後に、生まれたばかりの喜八郎を置いて義母が出て行き、父さんは相変わらずあまり家に帰って 来なかったので、兄妹4人だけで過ごすことは多かった。 来日したてで、一緒に暮らし始めたばかりの頃。何の気なしに 「外国育ちなのに、日本語上手ですね」 と言ったら 「うん。父さんに会った時教えてもらってたし、オレ母さんち宿屋だから、色んな国のお客さん居たから」 という答えが返ってきた位、タカ丸兄さんは―所々おかしいことはあるが―日本語が上手く、妙なことに ばかり詳しかった。 そんな兄さんと、喜八郎と三木ヱ門と4人で、初めて迎えたクリスマスは 、 「ねぇ滝ちゃん。日本のクリスマスってどんななの?」 「よくわかりません。うちでは、家族揃ってパーティなどをしたことは、ありませんから」 父さんはこの時期忙しくて、義母は私を嫌っていたので、私には、精々が保育所や学校の行事か、 友達の家でのパーティに遊びに言った覚えしかなかったのだ。 「そっかぁ。オレも、毎年色んな国のお客さん向けにごちゃ混ぜでやってたから、混じってるんだ」 加えて、兄さん的には折角なので日本らしいクリスマスをしてみたかったらしい。 「たとえば、他の国では、どのようなことをするんですか?」 「えっとねぇ……」 兄さんの話してくれた内容は、どれも面白くて魅力的だった。けれど、少々うろ覚えだったり、 私達だけでは出来そうもないことも多かったので、結局料理もケーキも、父さんから貰った お金で市販のものを買ってきて、少し歌を歌ってみたりした程度だった。 その次の年は兄さんの提案で、街に繰り出しイルミネーションを見たり、街中をぶらついて ウインドウショッピングをしたり、教会のミサにも参加し、食事は外でとってケーキだけは 買って帰って家で食べたのだったと思う。 料理もケーキもプレゼントも、私が自作するようになったのは、たしか3年目から。 その頃はまだ、さほど凝ったものは作れなかったが、喜んでもらえて嬉しかった覚えがある。 そしてその後数年間、私と兄さんで必死にサンタクロースの存在を信じ込ませようとしたのに、 喜八郎は早々に居ないと気付いてしまっていたのが、少々虚しかった。けれど兄妹4人で 過ごすことは、楽しんでいたと思う。 だからこそ、高校に進学し、小平太先輩と付き合いだしても、私は家族で過ごすクリスマスを優先した。 先輩は、それを許してくださったどころか、2年目のクリスマスは 「去年は上の姉ちゃんは入院してて、下の姉ちゃんは冷戦状態だったし、兄ちゃんも帰って こなかったけど、今年はみんな揃ってるから、滝んちのみんなも一緒にパーティやらない?」 と誘ってくださった。そしてそれ以降の年も、喜八郎が小学校を卒業する頃まで、大抵の 行事はご一緒させていただき、家族同士が親しくなっていったこともあったから、三之助が 出来たことが判明した時も、さほど揉めずに済んだのではないか。などとと思わないでもない 今はもう皆大人になり、それぞれの都合や立場や付き合いなどもあるので、揃うことは滅多にないが、 かっての出来事は忘れないし、大切な家族であることは変わらない。それだけの絆をくれたのは、 きっとタカ丸兄さんで、その最初の年の想い出が、今まで貰った中で最も嬉しかったクリスマス プレゼントだ。などと言ったら、笑われるだろうか?