私には、生まれ落ちたその瞬間から、「自分」というものなど無い。 名も、顔も、存在全てが、あの男に対する呪詛。 何一つ「真実」など持たず、望みも、欲するものもなかった。 雷蔵。お前に出会うまでは 見目麗しき妻を差し出さなかった。たったそれだけで、謀殺された父。 夫の死の真相を知り、忘れ形見を産み落としてすぐ、自ら命を断った母。 兄夫婦の仇を討つべく、遺児の乳母に名乗り出、妾となって懐に入り込んだ叔母。 端から道具として生を受け、それを受け入れ、母親の意のままに動く、したたかな義妹。 全ての元凶である、好色で性根の腐った、名ばかりの養父。 それらの者達に囲まれて育ち、陥れる力を得て来ることを望む乳母と、死を望む養父との、両方の思惑から 忍術学園に入学させられた。その時の私は、既にすべてに興味のない、冷めきった子供だった。 ただ一つ。養父に疎まれる要素の一つで、乳母に父と同一視された、実父と瓜二つの己の顔が 嫌いで、入学時から面を被って隠し続けていた。それだけが自分の意志だったように思う。 変姿の術を知り、それを独学で習得し、面の代わりに変装でもって素顔を隠すようになったのは、割と早かった。 その頃はまだ、面の皮一枚を真似る程度だったが、それでも目の前で自分の顔を真似られた相手は、驚き、気味 悪がることが殆どだった。そんな中でただ一人、他の誰とも違う反応をした奴が居た。それが雷蔵だった。 雷蔵は、自分と同じ顔をした私に向かい、 「わぁ、びっくりした。えっと、鉢屋くんだよね? すごい上手だね」 と、呑気に笑いかけてきたのだ。 「……気持ち悪くないのか?」 「何が?」 「何がって、自分の顔を真似されて、嫌じゃないのか!?」 「うーん。別にそんなに嫌じゃないよ。本格的な変姿の術を習うのって、上級生に なってからでしょ? なのに君は、もうそんな完璧に出来てて、凄いなぁって思う」 後になってから、雷蔵は「おおらか」なのではなく、「大雑把」なのだと気付いたが、それでも、 何のてらいもなく首をかしげて言い切った雷蔵が、この時の私には、とても眩しかった。 眩しくて、憧れで、近づきたくて、しかし捻くれ者の私は素直にそれを伝えることが出来ず、 また、雷蔵が知りたくて、ひとまず観察をし続け、頻繁に真似てみることから始めてみた。 すると、しばらく経ったある時。当の雷蔵から 「最近よく僕の顔してるよね?」 と言われた。 「顔使っても文句言わないの、不破だけだから」 「そっか。……あ、そうだ。前から言おうと思ってたけど、僕のこと『雷蔵』でいいよ」 「じゃあ、俺も『三郎』でいい。『くん』もいらない」 変装に関しても、友達となることに関しても本人の許可を得た私は、この時点からどんどん調子に乗っていった ように見えた。とは、同じ組に所属していた竹谷八左ヱ門の証言だが、自分でもそこが契機だったと思う。 何しろ、四六時中雷蔵に張り付き、「不破以外に手に負えるものは居ない」と判断され雷蔵と同室になれるまで、 ひたすら他の同室者を「部屋を変えてください!」と先生に泣きつくまでイビリ、大掛かりな悪戯や、先輩方に ケンカを売る時だけ雷蔵以外―その頃には雷蔵を通じて親しくなっていた八左ヱ門が一番多かった気がする―の 顔を使うようになり、「やりたい放題だな」と言われだしたのは、すべて雷蔵と友人になってからだからだ。 私の素顔が忍術学園の七不思議の一つと化したのは、2年か3年頃のことで、その頃にふと、 「お前は、私の素顔に興味はないのか?」 と雷蔵に訊いてみたことがある。その時雷蔵は、当然のように、 「見せてくれるんなら見てみたいよ。でも、嫌なんでしょ? だったら、無理に見せてくれなくていい」 そう答えた。その答えが好ましかったので、「お前は特別」と言って一瞬見せてみたら、 「案外普通だね。でも、結構格好良いじゃないか。何で素顔が嫌いなの?」 と訊かれた。そこで今まで誰にも話したことのなかった、理由に纏わる家庭事情を掻い摘んで話してやると、 一言だけ「そうなんだ」と返ってきた。その目が少し潤んでいたので、おそらく興味が湧かなかったわけでは なく、それ以上何を言っていいのか解らなかったのだろう。そんな気遣いも愛おしく思えた。…という話を、 数年後他の三人にしたら、思いきり呆れられたが、私が雷蔵に執着するようになった理由を訊いてきたのは 奴らの方だ。素顔を見せてやったのも、生い立ちやら何やら話してやったのも、そもそも友達になったのすら、 すべて「雷蔵に言われたから」だというのに、本当に失礼な奴らだ。そう言ったら、さらに呆れられたが。 私が一方的に雷蔵に想いを寄せていたと思いきや、雷蔵の方も私に多少は執着してくれていたと知ったのは、 忍術学園の卒業直前。それからも共に過ごし、関係が完全に変わったのは、私が「子供を引き取りたい」と 申し出た時のこと。あの時雷蔵は、私の血を引く息子を引き取って育てる条件として、三つのことを誓わせた。 ひとつ 極力「色」を忍務に使わないこと ひとつ 雷蔵の知らない所で死なないこと ひとつ 雷蔵以外には素顔を見せないこと それは全て、雷蔵なりの独占欲から来るもので、破る気など私には毛頭無かった。けれど…… とある忍務の際に、私は額から左頬辺りにかけてを斬りつけられ、その創が今もしっかり残っている。 辛うじて一命は取り留め、幸いにも目はやられていないので、日常生活にも忍務にも支障をきたすことはなく、 普段は変装などでその創を隠せているので、そんな酷い、特徴的な創があることを、周囲には知られていない。 しかし時折、ふとしたことで雷蔵の機嫌が悪くなることがある。そのきっかけは、私の 素顔に関することや、旧知と再会したことという場合が多く、そういった時は大抵、 「幼い、十五までの私の顔を知る者なら他にも居るが、今の顔を知るのはお前だけだろう?」 と宥めていたが、創を負って以降 「ううん。もう一人居るでしょう? …仕方無かったのは解っているし、君が助かって良かったとも思う。 だけど、君が誓いを破ったのは事実であり、あの人が、大人になった君の顔も、そこに残る消えない傷も 知っていることだって事実だ。……それが、僕には嫌で堪らない」 といったように、旧知の医師が私の手当てをした際に、素顔を見た事を挙げて責めてくるようにもなった。 その医師が、単に旧知であるだけならば、雷蔵もここまで葛藤を抱えて責めてくることはないのだろう。しかし 厄介なことにその医師は女性で、しかも私が多少の想いを寄せていたのではないかと、雷蔵が勘違いをしている 相手でもある。…言っておくが、私は彼女に対し、ある種の同族意識を感じてはいたし、「気にしていなかった」 と言えば嘘になるくらいには意識していた。けれど、決してそれは恋愛感情などではなく、むしろ姉弟のような 感覚だったと、自分では思っている。そんな内容の弁解をし続けているが、未だに雷蔵には信じてもらえていない。 「ならば、もう一つか二つ、消えない傷を付けるか? そうすれば、それを知るのはお前だけだ、雷蔵」 「いいや。もうこれ以上、君が不用意に傷つくのも見たくない。…だからこそ、余計に嫌なんだ」 私に関することのみ、雷蔵は滅多に悩まない。 それは私にとって、至上の喜びであると同時に、雷蔵を変えてしまった罪悪感にも通ずる。 誰よりも愛おしい、かつて渇望した憧れの存在を、この手で穢し、堕としてしまった。 それが、どれだけ甘美で心苦しいことであるか。誰にも解りはしないだろう。 むしろ、私だけが知っていればいい。それこそが、私だけの特権なのかもしれないのだから。

家庭訪問話を書いた時から、ずっと書こうと思っていて書いていなかった話。 『もしもの話』『歯車』を踏まえた感じで、傷を負ったのはおそらく22〜25歳頃。 傷はブラックジャック的な、顔を横断するものなイメージでお願いします。 尚、三郎の家族構成等は、皆の間と別館をご覧ください。 2009.7.26