落花 第十四話
入学手続き中に知り合って、学友として6年間共に過ごし、卒業後も時折顔を出すようになって約1年。
出会った時には気を張った男装の少女だった伊作が、ぎこちないながらも妙齢の女性として振舞うようになり、
おまけに人妻かつ母親になったことで、6年間では見たことのない姿を、1年の間に仙蔵は随分と見てきた。
それでも、7年通して一度も目にしたことがない表情がある。
それが「泣き顔」だった。
伊作は「泣いても無駄」「誰も助けてくれない」といって、絶対に泣かない。
たとえどれだけ酷い目にあっても、辛い状況に置かれても、歯をくいしばって耐えている。
しかも「人前で泣き顔を見せない」のではなく、最早独りの時ですら泣けないのだという。
それは傍から見ていて痛々しいほどの強がりだが、仙蔵の知る伊作の姿は常にそうだった。
けれど、今仙蔵の目の前にいる伊作の頬には、涙の痕が残り、目も微かに腫れていた。
伊織が生まれる直前に、頻繁に訪れる大義名分を手放した仙蔵が、この家を訪れるのは、約2か月振りになる。
しかし以前と同じように、一声だけかけて当然のごとく上がりこむと、少し慌てた気配の後、泣いていた
形跡の残る顔で、伊作はにっこりと笑って「いらっしゃい。久しぶりだね」と仙蔵に声をかけてきた。
「いさ。お前どうした。泣いていたのか? 何があった。あの馬鹿が何かやらかしたのか!?」
「大丈夫、気にしないで。夢見がちょっと悪かっただけだよ」
心底心配そうな顔で駆け寄ってきて、自分を気遣いながら文次郎をけなすようにまくし立てる仙蔵の
勢いも久しぶりだと感じながら、伊作はやんわりと苦笑で誤魔化そうとしたが、そうはいかなかった。
「何の夢を見た。また、いつもの悪夢か? ……ああ、もちろん、言いたくないなら言わなくても良い」
「ううんあの頃と違って、夢の内容自体は悪くないんだ。ただ、目が覚めて、誰も居ないと、『もしかして、
今まであったことは全部夢で、今も僕はあの頃のままなんじゃないかな』って思ってしまうことがあるだけ」
忍術学園時代の伊作は、乱暴された日のことを繰り返し夢に見ることがあり、その名残で未だに酷い
睡眠障害が残っている。そのことを知っている仙蔵が、気遣いながらも端的に問うと、伊作は学園を
自主退学してから今に至るまで、何度も陥った錯覚と孤独感についてを、ぽつりとこぼした。
「伊織もね、『本当に文次の子かな?』って思っちゃうことがあるんだ。ぜーんぶ僕の見た夢で、本当は
相手もわかんない子供を、堕ろし損ねて一人でこっそり産んだだけで、学園時代と同じような状態だとか、
もっと酷い時には、『誰かに囲われてる』とか『売られた』なんて可能性がよぎったりもするんだよ」
文次郎が傍に居たり、せめて何か明らかな証拠の品が近くにあれば、その錯覚が錯覚だと気づけるが、
不在期間が長くなり、家の中に残る気配や痕跡が薄れていくほどに、不安になっていくのだという。
「……。あの馬鹿は、お前のその状態を知っているのか」
「一応はね。だから結構気を遣ってはくれているよ。だけど、久しぶりに長期の仕事もらえて、送り出したの
僕だし、根本的な理由は話したくないから仕方ないんだ。それに、少ししたらちゃんと落ち着けるから平気」
無理しているようではないが、どこか諦めたような伊作の言葉に、仙蔵の中の「何か」が切れた。
「あんな薄情者ではなく、私のモノになれ。戦や特別な忍務でも命じられん限り、長く家を空けはせぬし、
稼ぎも安定している。伊織のことも、我が子の如く愛しんでみせるし、何よりお前を決して独りにはせん」
伊織が出来たのを契機に伊作が学園を去った時から、もしくはもっと前。文次郎と付き合い始めた
との報告を受けた時から、仙蔵の中にはずっと「よく解らないもやもやとした感情」があった。
その答えが出るなりの告白に、言われた伊作も驚いていたが、口にした仙蔵自身はもっと驚いていた。
しかし、一度気付いてしまうと、それ以外に有り得ないとも己の中で納得できた仙蔵は、
覚悟を決めて伊作の答えを待つことにした。
「…ありがとう。でも、ごめんね仙蔵。それは出来ない」
「何故だ!? あやつへの、文次郎への感情は、未だあやふやなままなのだろう? だったら……」
困ったように微笑みながら答える伊作を、更に困らせるだけだと思っていても、仙蔵は納得がいかず、
未練がましく主張を続けようとした。しかし伊作は、それを遮り、言い含めるように言葉を紡ぎ始めた。
「君のことは好きだよ。もしかしたら、文次よりもずっと。……でも、君は全てを知っている。だから君を
選ばない。僕、私には、君は眩しすぎて、傍にいたら総ての汚れを見せつけられてしまいそうに思えるんだ。
多分こんなことを言うと、君や留さんには全力で否定されそうだけど、僕は穢れている。それは確かだ。
君は、僕にとってアノ守り刀のような存在だと思っている。それは、穢れを祓い清めると同時に、僕自身すら
斬ることの出来る程の強さを持っている。その強さには憧れる。だけど、傍にいるのは怖いとも思う。そして、
強くて綺麗な君の刃を、僕の穢れで曇らせてしまいたくない。…うまくまとめられないけど、僕の君に対する
感情はこんな感じ。我儘かもしれないけど、真に僕を想ってくれるなら、憧れで救いのままでいて欲しい」
泣き笑いのようで、どこか吹っ切れた表情。という、伊作が決心を決めた時特有の独特の表情と、言い出した
以上は絶対に引かない時の口調でここまで言われてしまっては、仙蔵には諦める以外の道はないように思えた。
それでも「最後のあがき」とばかりに、仙蔵は一言だけ問いを返した。
「…何も知らぬから、文次郎を選んだのか?」
「ううん。それは違う…と思う。知られたくはないけど、いつか話さなきゃいけないとも思っている。
……全てを見ていて、とても眩しくて、近いようで遠くて、触れたら火傷をしてしまいそうな太陽が君。
同じように近くて遠いけど、優しい光で見守ってくれていた月が長次。全部受け止めて、守ってくれた
大地が留。僕みたいなちっぽけな存在を物ともしない、明るくて少し眩しい真昼の世界がこへだとしたら、
文次は夕闇なんだ。完全な夜の闇ではないけれど、僕の汚れは見えなくて、でも相手の姿が微かに見える。
いつか夜になってしまうかもしれないし、昼間とも繋がっている。その曖昧さに救われることがあるんだ」
伊作本人が気付いているかは定かではないが、仙蔵にはこの例えが明らかな告白に聞こえてならなかった。
白日も真の闇も恐れる伊作にとって、薄闇がもっとも心地好いことは自明の理なのだから、そのような存在で
あるということは、無意識であっても心を許し、最上の存在として認めていることを意味すると感じたのだ。
いずれ伊作自身も、己の感情に気付くだろう。そう思うことで、仙蔵が自分の想いを諦めようとした矢先。
「……ねぇ仙蔵。君は、ただ一度きりの幻を手に入れることと、決して触れることが叶わないこと。
どちらの方がより辛くて、どちらを選んだならば、想いを封じ、諦めることが出来る気がする?」
「……。何が、言いたい」
儚げに微笑む伊作の問いの意味が、仙蔵には一瞬理解出来なかった。
「あの人と、他は違う。そう、思うことは出来るようになった。だけどそれでも、怖いし、苦しくて辛い。
…誰に、どんな風に扱われようと、結局は苦痛にしか感じられないのか、それとも読物のように、優しく、
壊れ物のようにだったら違うのか。それが見極められたら、何か答えが出るかもしれない。だから、その
答えを与えてくれるなら、今この時だけ、君のモノになっても構わない。そう言ったら、君はどうする?」
具体的な言葉は一切口にしていないが、伊作が何を言わんとしているのか悟った瞬間。仙蔵は己の耳を疑った。
そしてそれと同時に、伊作が自然に妻として文次郎を「あの人」と呼んだことにも軽い嫉妬を覚え、
後悔と未練しか残らないと解っていながら、拙い誘いに乗ってやったふりをして、その手をとった。
「あの馬鹿は、今までと同じだとでもいうのか」
「我慢や手加減はしてくれてるみたいだけど、何分若いから歯止め利かなくなることもあるみたいで…」
「お前、私も奴と同年なのを忘れているだろう」
「忘れてないけど、経験量とか元の性格とか全然違うだろう?」
「……」
およそ雰囲気に似つかわしくないやり取りを交わしながら、仙蔵は伊作に触れていった。
そうでもしなければ遣り切れなかった上に、伊作の側も茶化すことで何かを誤魔化そうとしているのが
感じられたためだが、結果的に伊作に恐怖感を与えなかった気がするだけ、良かったと思うことにした。
「幻」からしばらく経っても、なまじ触れることが叶ってしまっただけあって、案の定仙蔵は
後悔と未練と罪悪感に苛まれ続けていた。そんなある日、一通の文が彼の元に届けられた。
差出人の名は無かったが、表書きの手跡に仙蔵は見覚えがあった。
当たり障りのない―誰の目に触れても問題のない―内容しか書かれていないその文には、よく確かめると
薄い紙が重ねてあり、人目を忍ぶようにそちらに書かれていたことこそが、差出主からの本題だった。
”ややが出来ました。時期を考えますと、仙蔵様の子としか思えませぬ。
如何に致しましょうか。産むも堕ろすも、この身の危険は然程変わりは御座いません。
貴方様がお選びください。わたくしはそれに従います。 十六夜”
まず他人には気付かれないだろう細工をした上に、たとえ露見しても解らないように変名で
身分を偽って書かれていることが、事の重大性を如実に表していた。しかしそのようなことを
しなくとも、仙蔵にはそれがどれだけ取り返しのつかぬことか、嫌というほどよく解っている。
「遊び女の十六夜」は、学生時代に着物や簪などを買い与えたり、連れ歩く際に、他人に
見とがめられても誤魔化せるようにと、仙蔵が伊作に与えた名と身分なのだが、このような
内容に最も相応しいようにも思えて来て、「まるで呪詛のようだ」とすら仙蔵は感じた。
数日後―本当ならばすぐにでも問い質しに行きたかったが、仕事で無理だった―。三月振りに
潮江家を訪れた仙蔵は、文次郎が不在なのを確かめるなり、伊作に文の内容が事実なのかと問うた。
「この僕が、2月近く計算を誤ると思う? あの前後、併せて三ヵ月文次は家を空けていた。
つまり、君の子でしか有り得ないんだ。…つわりさえ乗り切れれば、体型的にはまずばれない筈。
伊織がお腹にいた時のことは、君も覚えているだろう? それに、最悪早産なり死産だったことに
して誤魔化すことも出来なくはない。産むにしても堕ろすにしても、間違いなく命の危険性は伴うよ。
でも、僕は死ぬ気はない。何としてでも生き抜いてみせる。だから、君が選んで? 多分それが、
僕が君に対してしてあげられる、最上で最後のことだから。ね? お願い仙蔵。選んで」
幾度も児を孕み堕ろしてきた経験上、伊作が産み月の目算を誤ることは考えにくい。
その程度は、仙蔵も端から解っていた。それでも信じたくなかったからこそ訊ねたのだが、
伊作は迷いのない表情で断言してから、懇願するように仙蔵を見つめて語りかけてきた。
「私は、ここでお前に、『産んで欲しい』と望んでも良いのか? もし、たとえ誰にも気付かれること無く
その子供を産み落とし、母子共に無事で、なおかつ子供を私が引き取り養育することが叶ったとしても、
いつかは綻びは生じ、真実が露見するやも知れん。そうなれば、如何なる言い訳も通用はせんだろう」
「その覚悟を背負うことも、君にしてあげられることの一つだよ」
自棄で言っているのではないことだけは解ったが、真意の読めない伊作に対して、仙蔵は戸惑っていた。
「…全ての罪は私のもの。だから、君は心配しないで望むままを答えて? 本当に、コレが最後だから」
妙に艶やかに笑い、囁くように呟いた伊作に、仙蔵は寒気さえ覚えたが、覚悟を決め一言
「産んでくれるか?」
とだけ言葉を紡ぎだした。
相変わらずうまく纏まってはおりませんが、コレが彼女なりの理由でけじめです。
次回以降、一気に数年後に飛びます。そして最終章です。
2009.3.30
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