落花 第十九話(前編)
忍術学園を卒業して以降、旧友達と連絡を取り合っているのは、基本的に伊作の方である。故に、
彼らが妻を娶ったという報告も、子供が生まれた話も、文次郎は全て伊作から聞いた。
旧友達の内、長次は家が近いので、婚礼の数日後に嫁御―玉手―の顔を拝みに行ったし、長男永治が
生まれた時も割とすぐに祝いに行った。小平太の所は、若干遠い上に伊作が体調を崩していた時期と
重なったりもしていたため、揃って祝いに訪れることが出来たのは、長女の栗子と4番目の鶏介が
生まれた時のみ。
そして留三郎に至っては、嫁を貰ったことしか聞いておらず、その素性も名前も知らなかった。何しろ
留三郎が所帯を持ったのは、文次郎がうっかり連絡を忘れたまま連続で忍務を請け、その結果一年強に
亘って家を空けていた時期のことなので、仕方ないと言えば仕方ないのかもしれない。
×××
初めに訪ねた長次には「小平太に訊け」と言われたので小平太から訊き出した、留三郎の現在の住まいは、
文次郎達の住む町から三里程の街道にある旅屋で、その旅屋の主人の娘だか姪だかを貰ったらしい。との
ことで、忍務がない時は留三郎も婿殿として旅屋で働いているのだという。
運がいいのか悪いのか、旅屋に辿り着くなり、店先で留三郎と鉢合わせ、「とりあえず殴っていいか」と
殴られた後で言われ、かつてと同じ様な殴り合いに発展しかかった矢先
「営業妨害だから、せめてお客に見えないでやってくれないかね、アンタら」
との文句と共に、思いっきり水をぶち掛けられた。
「あのな、香(きょう)。確かに今のは俺らが悪かったが、いきなり水を掛けるなよ」
「コレが一番てっとり早いんだよ」
水をかけて文次郎と留三郎のケンカの仲裁をしたのは、少々キツめの美女で、口ぶりからするに―
「……食満。まさか、これがお前の嫁さんか?」
「よく姉貴に間違われるけどな。女だてらに旅屋の主人だからか、生来の気性なんだかは知らないが、
気が強くてさばけてて、やけに厄介事に慣れたやつなんだよ」
この上なく「似た者夫婦」というやつらしい。しかも娘などではなく、当人が主人であるようだった。
「さてと、留さん。この御仁はウチのお客と、留さんの個人的な客人。どちら扱いすべきだい?」
「……。一応俺の客だが、金をとって構わない」
とりあえず中に通され、濡れた着物を着替え終わると、香は文次郎ではなく留三郎に問い、留三郎も
文次郎の意向を聞かずに当然のように答えを返した。そのことに文次郎は若干イラついたが、異論は
無いのでわざわざケチをつけるようなことはしなかった。
「いさから、大体の事情は聞いた。…っても、書面でだけどな」
香が仕事に戻り、留三郎と二人にされた文次郎が、どう話を切り出したものかと考えていると、留三郎
から口火を切ってくれた。伊作からの文には、泉を産んだのが伊作であることと、文次郎が訪ねて来たら
全てを話してやって欲しいとの頼みしか書かれておらず、泉を産むと決めた正確な動機までは解らない。
と前置きをして、留三郎は語り始めた。
「アイツがかつてどういう目にあってきたかは、どうせ長次辺りから殆ど聞いただろ? だから俺は、
俺しか知らないだろう話をしてやるよ。……俺が初めてアイツの身の上話を聞いたのは、四年の春に
お前らにバラしたアノ時だが、その後もう少し詳しい話を、何度か聞いたことがある。といっても、
大抵酔ってるか、寝惚けてるか、酷い鬱状態に陥ってる時のことだから、本人は喋ったことを覚えて
いない可能性が高いけどな」
学生時代の伊作は、泣かないと同時に、弱音を口にすることも殆どなかったが、流石に同室だった
留三郎には、悩みや本音を零したことがあるらしい。
「掻い摘まんで話すと、三つかそこらで完璧にお払い箱になって、母親と共に寺にやられたが、正直
それまでと何ら変わらない生活だったんだそうだ。何しろ忍術学園に入学するまでは、気の触れた
母親と、その母親付の端女というか、妹分みたいな娘以外とは、殆ど接したことがないような暮し
だったらしい。で、その、実質的な育ての親であり、姉のような存在だった端女が、どうも『おりや』
って名だったようなんだ」
「……そっから取って『伊織』か」
伊作が、留三郎がかつて自分に付けた偽名を娘に与えた理由が、文次郎にはようやく飲みこめた。
「ああ。先に言った通り、いさは自分が話したことは多分覚えていないだろうし、話の端々でたまに出て
来てた名が、多分姉代わりだった人のものだろうと俺が推測してそこから付けたんだが、そのまま娘に
やったってことは、正しい筈だ」
あくまでも推測の域は出ないが、留三郎的には確信があって付けた名であることを、他人に話したのは
コレが初めてで、伊作自身にも偶然を装って訳を話していないのだという。
「んじゃ、次。五年の夏前の夜中に、テメェの部屋に泊まりに行った筈が、真っ青な顔して戻って来た
ことがある。……何時のことだかは解るよな?」
軽めの口調で誤魔化しながらも、殺気を漂わせ凄んだ留三郎の問いに、文次郎は答えなかったが、何の
話をしようとしているのかはハッキリ解っていた。
「俺は訝しんで理由を訊こうとしたんだが、あの時のいさは、迂闊に声も掛けられないような状態でな。
ひたすら『何で逃げちゃったんだろう』だの『違うのに』だのと呟いていた」
その言葉と纏っている空気から、何となく何があったか察した瞬間。愕然とすると同時に文次郎への殺意も
湧いたが、怒鳴り込んだりしたら伊作が傷つく気がしたので踏みとどまったのだという。しかも、少し頭を
冷やす為に外に水を飲みに出た時、部屋のすぐ前の地面に吐いた跡を見つけたらしい。
「アイツは泣けない分自律神経に異常をきたし易いようで、緊張(ストレス)が極度に達すると、吐いたり
体温調節が利かなくなったり、息が上手く出来なくなったりすることが多かったんだ。そのくせ強がる
のにも長けているから、それを隠そうとするんだよな」
確かに伊作は、倒れるほど酷い不眠症の時も、倒れる寸前まで何でもない風を装っていたし、事あるごとに
不調を誤魔化して隠そうとするきらいがあることを、文次郎もよく知っていた。
「……仕込み針での反撃や自衛を覚えるまで、いさは殆ど抵抗らしい抵抗をせずに耐えるだけだった。
その所為で心身共にボロボロになっているくせに、『何故抵抗しないのか』と俺らは訊いた…という
より、問い詰めたことがある。その時に、アイツは何て答えたと思う?」
文次郎に問い掛けながら、当時のことを思い返して、留三郎は顔を歪ませた。
「解らん」
「『泣いて喚いて抵抗したら、誰か助けてくれるの? そんな態度を見せたって、嗜虐心を煽って余計に
酷いことをされるだけ。それなら、反応しないことで興が覚めて止めてくれた方がよっぽどマシ』だと。
アイツはそうやって、早々に全てを諦めて、何も感じないようにしたんだ」
それでも堪え切れず、悪夢に魘され、心を病んでいく伊作の様子が解っていても護り通せなかったことが、
留三郎達には未だに悔やまれてならないのだという。と、そこまで話した所で留三郎の中に、一つの仮説が
浮かんだ。
「なぁ、妙な事を訊くが、伊織が生まれるより前に、お前はいさに拒まれたことはあるか?」
「……無い、な。怯え方が酷過ぎて俺から止めたことはあっても、アイツが『嫌だ』だとか『止めろ』とか
言ったのは、聞いたことがねぇ気がする」
訊かれて改めて思い返してみても、吐かれたことや呼吸困難や痙攣を起こされたことはあっても、直接口で
拒絶された記憶が、文次郎には無かった。
「あれだけ血の気が多いくせに、手を出し掛けた状態から、よく思い留まれたなお前」
「あのな。どれだけ溜まってようと、全身が強張り、血の気の引ききった真っ青な面で、歯の根が噛み合って
いないような女を組み敷く気になるか? しかも仮にも惚れてる相手だぞ」
半ば本気で感心した様子の留三郎に文次郎はキレかけたが、留三郎は一向に気にせずに、ブツブツと何か
呟き出した。
「そうか。まぁ、その辺りも一応違う。ってことになんのかね。とすると……」
「おい。何一人で納得してんだよ。小平太にも似たようなこと訊かれたが、それが何だってんだよ」
焦れた声を上げた文次郎に、留三郎は「後で話してやるよ」とだけ返すと、何故か香を呼んだ。
「少し本題とは逸れるが、今の手前にとって有益な話を聞かせてやる。……ウチの香は、ある種くのいち教室の
連中と似た感覚を持っているからな。そういう女目線の証言は、この件に於いて案外有効な筈だ」
留さんの証言前半戦。もうちょっと続いて、後編は若干お香さんが出張ります。
(ちなみに留さんが長次などを名前呼びしているのは仕様です)
2009.9.2
2009.9.13 少し修正
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