落花 第二十一話
文次郎が土井から預かった、きり丸の文に書かれていたのは、見知らぬ人物の名と在所を示す
地図で、最後まで目を通してようやく「鉢屋先輩が現在使用している名と家です」と書かれて
いた。しかし全く意図が解らず、それでも仕方なしに地図に書かれた場所まで辿り着くと、家の
前で文多より少し幼い年頃の子を遊ばせている女の姿が、まず目に入った。
その女の顔には一応見覚えがあったが、何の冗談かと文次郎が怪訝そうな顔で立ち尽くしていると、
子供が文次郎に気付いて、傍らの女の袖を引いて指さした。
「……。お久しぶりです。こんな所に、何の御用ですか?」
キョトンとした表情で問い掛けて来たということは、素顔に薄化粧を施し、女物を着ているだけで
「不破の方…だよな? お前こそ、何だその格好とガキは」
「かーさん。だれこの人?」
「……昔の知り合いだよ、風早。説明しますので、とりあえずおあがり下さい潮江先輩」
子供に母と呼ばれたのは、かつての後輩に当たる不破雷蔵だった。しかし文次郎の知る限りでは、
雷蔵は男であり、学生時代からつるんでいた鉢屋三郎と、今も共に居る筈である。
「三郎。潮江先輩がいらっしゃたんだけど、組むような依頼でも請けたの?」
家の中に入りながら、奥に向かってそう問いかけたということは、雷蔵は今も三郎と共に暮らして
居るということなのだろうが、
「いや。別に仕事は請けてない。けど、来るかもしれない話は聞いていた」
「……鉢屋、なのか?」
「そうですよ。半年ぶりくらいですか?」
家の中に居た男は、文次郎の全く知らない人物の顔をしていたが、声は半年程前にとある忍務で
組んだ時に聞いた三郎のものと同じだった。
「そう、だな。……傷の具合はいいのか?」
「お陰様で。こうして他人の面の皮一枚被っていれば、何の問題もない程度ですよ」
半年前に組んだ忍務の最中に、三郎は顔に大傷を負った。それは、命に係わりはしないが痕が残る
ような酷いものだったが、今目の前に居る三郎の顔に傷は見当たら無い。ということは、この顔も
変装なのだろう。そこは解ったが、雷蔵の格好と子供の素姓はまだ分からない。そんな風に文次郎が
考えていると、雷蔵がざっくりと
「とりあえず、この子は三郎の子の風早で、三郎は変装した自分であっても僕の隣に『妻』と名乗る
女が居るのは嫌なんだそうで、ここでは僕が女装をしています」
と、答えになっているのかなっていないのかよく解らない説明をした。その態度がかなりイラついて
いるように文次郎の目には映ったが、迂闊に訊けそうもない空気を雷蔵は纏っていた。
「僕だって、本当は三郎の隣に自分以外が居るのは嫌ですけど、同じ顔の男二人に子供というのは
不自然ですから、どちらかが僕の顔のままで女装をするか、僕の顔をした三郎の横に完全に顔を
変えた女装の僕が居る。という形で、夫婦を装うしかないんです」
言い分としては解らなくもないが、根本的な所の説明がないように文次郎が感じていると、三郎が
妙に嬉しそうな声で付け加えた。
「私達は、『夫婦』であり『家族』なので、他の形を装うつもりはありませんから」
学生時代から三郎が雷蔵に執心していたのは、周囲の殆どが知っていたが、雷蔵はそこまででは
無かった筈だし、先程雷蔵は風早を「三郎の子」だと説明したということは、一時的に母親役を
引き受けたということなのではないか。と、ほんの一瞬文次郎は考えたが、すぐさまそれは何か
違うような気もして来た。
「年月を重ねれば、人は変わるものですよ先輩。……特に、色恋が絡めば一層に」
文次郎の考えを読み取ったかのように、三郎はニヤリと笑い、さらに言葉を続けた。
「風早は、正真正銘私の血を引いた実の息子ですが、産んだのは忍務で利用しただけの女です。
子が出来たのは誤算で、その女がこの子を産んで命を落としたので引き取りはしましたが、
気まぐれのようなもので、単に雷蔵に私の子を育てて欲しかっただけかもしれません」
「風早のことを知って、初めて気付いたんです。かつては、出会ったことも共に過ごすことが
出来たのも、同性だったからこそだと考え、それで充分だと思っていたけれど、出来ること
ならばこの身が、三郎の児を孕めるものなら良かったのにと、心から思う程に、僕は三郎を
想っているんだって。……その点でも、僕はいさ先輩が羨ましくて妬ましい」
雷蔵の、三郎と同じかそれ以上の執着と狂気に、文次郎は寒気すら覚えそうになったが、その
言葉の中に、一つ引っ掛かるものがあった。
「おい、不破。『その点でも』ってのはどういうことだ」
「……三郎の顔の創。アレを知っていて、素顔まで見たことが妬ましく、三郎だけでなく、貴方も、
他の人達の命も救えるような、医師としての知識と腕が、羨ましいと同時に妬ましいんです」
それがどれだけ理不尽な恨みか、雷蔵は解っていて、それでも止められない感情なのだという。
「……潮江先輩。人は、きっかけ一つで此処まで狂えるものなんです。そして、気付かずに胸の
奥に秘められていた想いこそ、自覚し、表に現れた瞬間に、狂気に代わる可能性が高い筈です。
ですから、引き出してみたらいかがです?」
まるで「すべてお見通しだ」とでも言いたげな三郎の口調にはムカついたが、あの穏やかで
大雑把で悩み癖のあった雷蔵の、あのような様を目の当たりにした以上、説得力は充分だった。
果たして伊作の中にも、雷蔵のような狂気があるかは解らない。けれど、何かしら秘めた本音は
あるだろう。それが如何なるものであっても、受け容れようと、文次郎は覚悟を決めた。
おそらくそれだけの覚悟がなければ、伊作本人はおろか、仙蔵からも全てを訊き出すことは出来ない
だろう。それほどまでに伊作の闇は深く、本音を封じていることだけは、既に判っているのだから。
雷蔵さんが、だいぶ『離』仕様になりました、ごめんなさい。
ちなみにきり丸が鉢雷の現状を知っているのは、二人共忍務な時に風早を預かって看てたのが彼だからです。
2009.10.12
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