落花 第九話
「さて。それでは、理由を話してもらおうか」
一通り手当ても片付けも終え、今度は茶でも淹れようかと立ち上がりかけた
伊作を制して問うたのは仙蔵だったが、他の四人も同じことを考えていた。
それに対し、伊作は少し逡巡した様子を見せてから、誰とも目を合わせずに、
ポツリと不貞腐れるように口を開いた。
「…胎(はら)に、ややがいる」
だからそれを周囲に気付かれる前に、学園を去りたかったのだという。
衝撃の告白に、五人はしばし呆然として二の句が継げないでいたが、
まず最初に真顔でボソリと呟いたのは、長次だった。
「間違いないのか?」
「ああ」
「相手は!?」
次に我に返り、食って掛かるように問い詰めようとして、他の四人―特に
文次郎―に「どういう意味だ」と訊かれる前に、伊作自身に
「…それを、この状況で訊く?」
と眉を顰められたのは仙蔵だった。
「……ああ、そうか。悪い」
急な展開にも、仙蔵の取り乱しようにも付いていけていない文次郎と小平太が
首を傾げていると、伊作は文次郎の方を向き、妙にハッキリと、こう言い切った。
「『責任を取れ』だの『娶れ』だなんて言わないから、安心してね」
その言葉に、図星を突かれると同時に衝撃を覚えた文次郎が、返す言葉を探しあぐねて
いると、伊作は艶やかな笑みを浮かべ、ワザと芝居がかった口調で付け加えた。
「この子は僕…じゃなくて、わたくしの子にございます。父親(てておや)と名乗りたくば、
どうぞお好きになさいまし。けれど、わたくしはあなた様の枷となる気は御座いませぬ」
城勤めではなく、無所属(フリー)を選んだ駆け出しの無名の若手に、妻子を養う余裕などない。
言外にそんな意味を込めているのだと、悟れぬ程に文次郎は愚かでも鈍くも無い。
そしてその程度のことは、この場の全員が解っている。けれど同時に、だからといって
割り切って切り捨てられない、文次郎の心情も察することが出来た。
「…1つ訊く。自覚したのはいつだ?」
当事者を含む全員が、何も言えずに場を沈黙が支配仕掛けた中、溜め息混じりに
もう1つの重要な点を指摘したのは、留三郎だった。
「……1月前」
俯いて、目を逸らしながら答えた伊作の言葉に、留三郎は再び溜め息をついた。
「つまりは、身重と判っていて、あの荒業芝居の計画を立てたってことか」
「…例え、それで児(こ)が流れても、己が命を失うこととなっても、
天運だと思うことにしてたから」
曰く、「最後の賭けだった」のだという。顔を上げ、決心したように言い切った伊作の言葉の、
本当の重みを知る者達が何も言えないでいると、吐き捨てるように文次郎が毒づいた。
「…不運小僧が運試しかよ」
それが、心配と行き場の無い怒りとがない交ぜになった末に出た言葉であると、
伊作は解っている。だから、細やかな反論しかせずに薄く苦笑を浮かべた。
「胎の児に運があれば、生き残れると思ったし、僕はみんなが思っている程、運が
悪いわけじゃないんだよ。本当は。…ただ、ちょっと欠けているところがあるだけで」
困ったような笑みの上に、「これ以上の追求するな」と「本題に戻れ」と書いてあるように
感じた五人は、伊作の今後の身の振り方についての話をすることにした。
しかしそうすると、やはり「1人で産んで育てる」のか、「文次郎と所帯を持つ」のかの
二択になってくるわけで、それによって各自が出来る提案も変わってくる。
そのため、一応は考えがある者も、それを言うに言えないでいると、文次郎が
「二人だけで話させてくれ」
と残り4人に頼み込んだ。
「いいだろう。但し半刻(約1時間)だけだ」
だから、余計なことはするな。と言外に匂わせた仙蔵に、目線だけで「しねぇよ」と
文次郎が返すと、仙蔵は異論がありそうな留三郎以下3人を引き連れて、その場を辞した。
それを見送り、気配がなくなったことを確認すると、文次郎はおもむろに口を開いた。
「…産む気はあるんだな?」
「……うん」
「1人で産んで、どうやって育てるつもりだ?」
なるべく責め立てる口調にならない様に気を遣い、文次郎は問いを重ねていった。
「長次や留から、勤め口の紹介は前々からあったし、どこか田舎の村で診療所を
開くことも出来なくは無い。…それに、最悪『アノ人』に身売りする。って手もある」
長次からは、「身体の弱い母に、薬学の心得のある侍女として仕えないか」と。留三郎からは
「自分の村で診療所を開くなら援助は出来る」とそれぞれ言われていたのだという。
また、勤め先が悪名高く年が離れてはいるが、地位も金も充分にある某忍び組頭からも
求婚されており、ひとまず断ったが、最終手段として選べなくもないらしい。
「なら、その…初めの内は、むしろ俺の方が重荷になっちまうかもしれないが、それでも、
傍に居ちゃいけねえか? お前の夫で、胎のガキの父親として」
「…わかんない」
これでも、文次郎なりに一杯一杯になりながら、誠意を込めて言葉を選んだつもりだった
のだが、伊作は妙に遠い目をしていた。
「は?」
「この子を、『産んでもいい』って思えた。でも、君への感情が何なのかは、まだよく
判らない。それに、僕は、自分が『妻』や『母親』になれるのかも判らない。だって、
そんなもの、知らないもん。…母様も父様も、『わたし』には居なかったんだから」
焦点の合わぬ目で、遠いどこかを見ながら呟く伊作に、文次郎は掛けてやる言葉が
見つからず、ただその名を呼ぶことしか出来なかった。
「伊作…」
「違う。それは、『わたし』じゃない。『兄様』の名前。…『僕』は兄様の身代わり」
昔、一度だけ聞いた事情。生まれてすぐに死んだ双児の兄の代わりとして育てられ、
気の触れた母の目には、端から『娘』は写っていなかったらしく、名すら無いのだという。
入学してからは、「遠縁の”伊織”」や「団子屋の”伊砂(いさご)”」、「知人の娘”伊久”」などの
偽名が友人達によって与えられたが、文次郎には省略形の「いさ」程度でしか呼ばれたことがなかった。
「…考える。他の連中のを使うのは癪だから、少し時間をくれ。それと、わからないなら
わからないままでも、ひとまずは構わん。いっそもう、答えが出るまでの間だろうが…」
言いながら、自分は半ば自棄になっているのだろう。と、文次郎は感じた。
「いいの?」
けれど、憑き物が落ちたような、呆然とした表情を伊作に向けられた瞬間、それで合っていた
ような錯覚に陥ったのも、また事実だった。
「ああ。とりあえず今の俺がお前にやれるもんは、『居場所』と『名前』と、『考える時間』
だけで、他にしてやれることは無いかも知れねえが、お前がそれでいいならな」
「…充分、だと思う」
呟くように返した伊作の目からは、数粒の涙が零れていたが、本人は気付いていなかった。
そして、無意識にではあっても、伊作が―生理的以外で―泣くのを、文次郎はこの時初めて
見たのだった。
伊作の涙が止まった頃、他の四人が戻ってきて、経緯を大まかに話すと、反射的に留三郎と
仙蔵には殴られたが、それくらいは当然だろうと文次郎は思い、珍しく反撃はしなかった。
ただし、小平太に胸倉を掴まれ「大事にしろよ」と睨まれた事と、長次にまで手加減なしに
殴られたのは予想外だった。
後日。仙蔵や留三郎には、「クサイ」だの「気障」だの「気取りすぎ」などと散々に
言われながらも、文次郎が伊作に与えた名は、『潔』と書いて『いさぎ』といった。
ひとまずこれで一区切り。次回からは基本的に「未来」となります。
『水霜』に置いてある年齢順から親の年を逆算なさった方は、おそらく居ないでしょうが、
伊織は「卒業後」ではなく、「在学中」に出来ちゃった子なのです(笑)
(なお、伊作が偽名の一つを娘にそのままつけた理由はちゃんとあり、その内出てきます)
この時点(1月後半)で妊娠9週前後。つわり真っ只中です。
実は1話で伊作が「慢性的に眠い」と言っていたのは、つわりの症状の1つで、
この辺りで大体自覚し始めておりました。確信したのは、多分冬休み中か実習直前頃
ついでに、留さん(と仙様も)は、伊作の月経周期をほぼ把握していたり
「運が悪いんじゃなくて、欠けているところがある」
というのは、うちの伊作は左目がほとんど見えていない設定だからです。
なので、逆に暗闇と気配には強いです。…が、実際は運もあまりありません。
2008.9.28
潮江さんのプロポーズ(?)は、実は予定外。『潔』はとあるマンガの主人公の名前だったりします。
この先も、当初の予定よりはちゃんと想いあってくれそうな予感がするのですが、まぁ、予定は未定なので
ちなみに、雑伊のやりとりはその内番外編で書く予定でございます。
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