落花 第十話(後編)


伊作が死を装って、忍術学園を中退したのは、正規の卒業の二月ほど前のこと。 そこから、文次郎を含む他の仲間達が卒業するまでの間、伊作は とある城下町の外れの一軒家に移り住み、そこで小さな診療所を 開き、裏の畑で薬草を栽培しながら一人で暮していた。 他所から来たばかりの新参者でありながら、彼女は 早い内から医師として周囲に認められ、生計を たてていける程度の患者が診療所に足を運んでいた。 その理由は、その町が友人の一人である長次の地元であり、 三日に一度の割合で身体の弱い彼の母の元に往診に向かう ことで、身元を証明し信用を得ていたからだった。 端から全く知らぬ土地で、一からやっていくよりは確実で、なおかつ 「もしも」の時には力にもなれる。そんな理由で友人達が出した提案を 文次郎が飲み、最も説得力のある大義名分を持つ長次の膝元を選んだのは、 ひとえに「いさを一人にしてはならない」との思いがあったからだった。 文次郎は、伊作の身にかつて何があったのかも、彼女が何を 恐れているのかも知らない。それでも「独り」を極端に厭うて いることも、それを隠そうとしていることにも気付いてはいる。 また、お互い女親を持たずに育ったため、何かわからぬことがあった 際に訊ける相手が必要だ。という考えも、なかったわけではない。 そこまで考えたにも関わらず、もっとも精神的に不安定な出産の前後 二月近く、文次郎が伊作の傍に居なかったのにも、一応訳はあった。 まず、彼にはいささか「父親になる」という実感がなかった。 それは別に、胎の児が自分の子か否か疑っていたわけではなく、 以前に比べれば、若干丸みを帯びた体型になったような気は すれど、ほとんど目立つ気配の見られ無い伊作の胎に、本当に 児が居るのかどうかの方が信じ難かったのである。 次に、駆け出しである以上は仕事のえり好みなどできず、かつ今後の ためには稼げる限り稼がねばならぬ。と、次から次に依頼を受け続けた 結果、ほとんど家に寄り付かぬ状態になってしまった。というのがある。 そして、胎が目立っていなかったために生まれる時期の読みを誤った上に、 最後に受けた忍務が予定よりも時間がかかったため、間に合わなかったのだ。 ××× 後輩達はおろか、同期でさえ知らぬ事実の一つに 「最も暗殺に長けているのは伊作である」 というものがある。 彼女は、人体の急所を誰よりも良く心得ており、なおかつ 暗器や毒物を常備しているため、声を上げさせる間もなく 息の根を止めることが出来る上に、闇に強い。 それは「夜目が利く」というよりも「気配に敏感」だと言う方が 正確で、気心知れた相手が傍に居る場合を除き、たとえ眠っている 時でさえ、一瞬で反応し反射的に相手に攻撃を仕掛ける程である。 故に仲間内では「独りで寝ている伊作に近づいてはいけない」もしくは 「遠くから一声掛けてから近付く」という暗黙の了解すらあった。 それは、たとえ忍びであることをやめてからでも同じことで、ついクセで 音もなく帰宅した瞬間。文次郎は闇の中で首筋に針を突きつけられた。 「腕を下ろせ、いさ。曲者じゃない。俺だ」 「”俺”などという名の知人は、わたくしには居りませぬ」 張り詰めた空気の中、言い聞かせるように文次郎が口を開くと、 明らかに不機嫌そうな、硬い声音での答えが返って来た。 「…文次郎だ。悪い。遅くなった。怒ってんのか?」 おざなりな謝罪を口にしつつ、文次郎がひとまず腕を掴んで下ろさせても、 伊作は抵抗せず、黙って俯いているらしいことだけが、気配で判った。 互いの顔も見えぬ闇の中で、無言でいるのも不毛だと思った文次郎が、 一旦手を離し、手探りで灯りをつけてから改めて伊作の方を見ると、 眉根を寄せてへたり込んでいた彼女の頬には、涙の痕があった。 「…泣いて、いたのか?」 「好きで、泣きたくて泣いていたわけじゃない。…止まらないんだ。 夜になると、涙が。『辛い』とか『哀しい』ってわけでは、ないと 思うんだけど、何故か、『独りだ』って感じた瞬間……」 淡々と紡がれる言葉とは対照的に、伊作の目からは涙が 溢れ続けていた。しかも、その言葉からすると、おそらく 毎晩このような状態に陥り、独りで泣いていたのだろう。 「泣くな」も「悪かった」も、何か違う。そんな気がした文次郎は、 その涙を拭ってやりながら、呟くように問い掛けた。 「…俺は、どうすればいい? どう、して欲しい?」 「傍に居て。少しの間で構わないから。それから、伊織のこと抱いてあげて」 少し震える声で、懇願するように答えた伊作の涙は、もう止まっていた。 けれど、取りすがるように文次郎の着物の裾を軽く握り締め、俯いて 言葉を選んでいる様は、泣いている時よりもむしろ弱々しげに見えた。 「…伊織?」 「うん。十日前に生まれた、僕達の娘。…留さんとは 関係ないよ。偶然、留がくれた名前が、大切な人のものに 似ていただけ。……それも含めて、少し話もしたいな」 「伊作」であることを捨ててから半年以上経っても、彼女の口調は 変わらない。流石に、対外的には女言葉で話すように心掛けては いるようだが、仲間内に対しては以前と変わらぬ話し方をしている。 それは、在学中に「家」で女として過ごしていた時も同じだったため、 文次郎は、時折「友人である善法寺伊作」と「恋人のいさ」の区別が あいまいになり混乱しかけることがあった。けれど、今はもう あえて分けて意識する必要は無いのだと、寝ていた娘を抱き上げ、 「母親」の顔をして少し微笑った伊作の様を見て思った。 「わかった。…ありがとう」 抱き上げられ運ばれても尚、眠ったままの伊織を手渡され、 おっかなびっくり受け取って抱きながら文次郎が、少し小さな 声で謝辞を口にすると、伊作は意図がつかめずに目を丸くした。 「え?」 「あー、いや、その、産んでくれて」 改めて言い直そうとすると、顔から火が出そうに恥ずかしくなってきて、 あいまいににごしながら呟くと、対する伊作の方はより真っ赤になっていた。 「どう、致しまして。…って、うわぁ。何だか照れ臭いんだけど」 「いや、俺の方がハズいだろ。…けど、本音だからな。一応」 正直なところ、伊作がここまで顔を紅く染めて照れる様は、初めて見た。 そのことで余計に顔から火を噴きそうな思いは増したが、それでも 言うべきことは言っておくべきだろうと、開き直って付け加えた。 「うん」 「お疲れさん。ひとまず、こいつは俺が可能な限り看てっから、寝ろ。 どうせ寝不足状態なんだろ? 目を覚ますまでは、傍に居てやるからさ」 ほんのりと頬を染め、心底嬉しそうに微笑んで頷いた伊作の顔は、良く見れば 疲労の色が濃く出ていた。それは、出産の疲れが残り、昼夜を問わぬ伊織の 世話に追われ、浅い眠りと鬱状態の繰り返しで、ろくに眠れていない証だった。 「ありがとう。でも、折角だったら三人で一緒に寝ない? そしたら、すごく良く眠れそう。ね? いいでしょ?」 小首を傾げて可愛らしくねだられたら、文次郎がソレを断る理由は無い。 しかし、無防備にすりよって来て、しがみつくように胸に顔を埋められ たりなどすると、眠っていて無意識の行動だと解っていても、色々と 抑えて耐えねばならなくなるため、文次郎は結局眠ることは出来なかった。 ちなみに「一切手出し無用の条件での同衾」は、実は学生時代にも 何度かしたことがあった。そこまでの信用を得られているということ 自体は、誇らしいと言えなくもないが、健康な青少年には辛い状況だった。 それに比べれば、今の状況はマシなのか、それともここまできてもなお 手出しできない哀れな状況のままなのか。その判断は難しかった。

お待たせしました。前編から1ヶ月も開いて申し訳ございません。 しかし開いた分考える時間はあったので、ちょっぴり糖度が増しました。 次も若干甘め予定です。 書いている側としてもややこしいのですが、 今後の伊作の表記については 地の文→伊作、文次からの呼び方→いさ、名乗り→潔(いさぎ) ということでお願いします。 (他の連中からも、基本は「いさ」。ただし、小平太だけ「いっちゃん」で) 新米お母さんの鬱は、夜中が一番酷い模様です。 本人泣く気0なのに涙が止まらなくなったりしています。 すれ違い夫婦。ここからが勝負です。頑張れ旦那 2008.11.14


  一覧