それは娘が生まれて二月程の時のこと。 往復も含めて十日足らずの忍務を終えた潮江文次郎は、帰途に つきながら、あることに思い至った。! 「一度、実家帰るか」 帰宅し、旅装を解いて食事を済ませた後の文次郎の一言に、妻である 伊作は一瞬こわばった表情を見せてから、怪訝そうに眉をひそめた。 「言っとくが、俺の実家の方だ」 伊作が何を誤解して表情を硬くしたのかすぐに察した文次郎は、内心大慌てだが、 それを顔には出さずに付け加えた。 伊作は実家と縁を切ったどころか、そもそもが妾腹の生まれで父や異母姉弟とは ほとんど面識がない上に、性別を偽って育てられていたので帰れるわけがなく、 全てを断ち切るために死んだことにしてある。 にも関わらず、「顔を出したらどうだ」と言ったのだと取られかけたのだ。 「…嫁を貰ってガキが生まれたんだから、報告の一つくらいしといた方がいいだろうが」 無事に忍術学園を卒業できたことは、学園から報告が行っているはずだが、その後 一度も帰省していないどころか、文すら送っていないことを思い出したらしい。 「いや、まあ、お前が嫌だとか無理だとか言うなら、行かなくても構わんが……」 目を丸くして黙り込んだ伊作に、嫌がられたのかもしれないと感じた文次郎は、 弁解めいたものを口にしたが、逆に照れ笑いで否定された。 「あ、ううん。嫌じゃない。行きたい。体調はもうだいぶマシになったし、 報告はしとくべきな気がする。…ただ、ちょっと、今更ながら『嫁』って 言葉に違和感を感じちゃっただけだから。いい加減、慣れないとなのにね」 六年間「男友達」をしていた所為で、未だに妻扱いに慣れていないらしい。 だが、一応最後の二年強は「恋人」として付き合い、女として扱ってきた はずだと、文次郎は少し頭が痛い思いがした。 しかしそれと同時に、あまり家に居付かずに仕事漬けで、「夫婦」の 時間をほとんど持っていなかったのも事実である自覚はあったので、 反論はせずに具体的な計画を立てることにした。! そんなこんなで、妻子を伴い地元まで帰ってきた文次郎は、そのまま 家に行っても誰も居ないだろうからと、伊織を抱いた伊作を適当な 岩場に座って待たせ、海の方に父と兄弟を探しに向かった。 ほどなくして父達の乗る船を沖合に見つけると、浜辺に居た顔見知りの海女に、 呼び戻してくれるように頼み、待たせている伊作達を迎えに行き、家の前で 中には入らずに父達が戻ってくるのを待つことにした。 「あー。本当に文次兄だ。生きてたんだお帰り」 自分の顔を見るなり、指さして声を上げた末弟にげんこつを一つくれてやり、 共に戻ってきた他の家族の顔を見ると、全員がほぼ同じことを考えている ような表情をしていた。。 そして、その様子を見て噴き出したことで、傍らにいた伊作達の存在に家族は 気づいたようだった。 「文次郎。こちらはどなただ?」 「その報告で帰ってきたんだ。ひとまず、家に上げろ」 玄関先で立ち話をする気のない文次郎は、兄の問いを半分聞き流しながら 家の中に入った。 「…嫁のいさと、娘の伊織。いさ。これが親父で、兄貴の廉と弟の三四と甚五」 「はじめまして。ご挨拶が遅れましたが、潔(いさぎ)と申します」 全員がひとまず座るなり文次郎はさっさと互いを指して説明を始め、あっけに とられている親兄弟に向かい、伊作が深々と頭を下げた。 そして次の瞬間 「お前。いつの間に他所の娘さん孕ませた!」 「若ーい。キレー。この人が俺らの姉ちゃん? でかした文次兄!!」 「文次兄、どこで知り合ったんだよ。こんな育ちの良さげなお嬢さん」 「こんな若い娘さん、いったい幾つ違うってんだ」 などの声が、いっぺんに文次郎に浴びせかけられた。 ちなみに上から順に、父・末弟・三男・兄の言葉で、粗方予想の範囲内だったが、 その中で一つだけ引っかかるものがあった。 「…兄貴。お前今幾つだ」 「は? 十七だが、それがどうした」 「俺は、お前の弟だよな」 「そうだが、それがど―」 急な問いに怪訝そうな顔をした兄が、その意味を悟るよりも早く、文次郎が叫んだ。 「弟てぇことは、これでもお前より俺は年下なんだよ。このアホ兄貴!」 常々「老け顔」だの「おっさん面」だのとは言われてきたが、弟どころか兄にまで 中年扱いされたら、キレて当然だろう。 「あははは。おもしろいお兄さんだねぇ、文次。…ところで、皆さんのお名前 などを、きちんとお聞きしてもいいですか?」 学園時代の誰かとのやり取りのような兄弟げんかを、楽しそうに見ていた伊作の 言葉で、兄弟はようやく自分達が名乗っていないことに気がついた。 「…兄ちゃん達の所為で、俺らまで恥かいたじゃん。……三男の三四郎です」 「四男で末っ子の甚五郎です。『姉ちゃん』て呼んでいいですか?」 「失礼しました。文次郎の兄の、廉太郎です」 「馬鹿な息子共ですまんな。父親の権太だ」 「一気にしゃべんな!」 「いいよ。聞き取れるから大丈夫。…四番目なのに、甚”五”郎くんなのは、 上が”三四”郎くんだからですか?」 伊達に忍術学園の保健委員長として、悩み相談やお互いの言い訳をかぶせてくる生徒の 相手をしてきただわけではない伊作は、正確に聞き分けてさらに問いかけた。 「いや。三四の前に、すぐ死んだ勘三郎ってのがいたからだ」 この時代の乳幼児の死亡率は高いので、死んだ子が数に数えられることは珍しい。 けれど潮江家では数えられている。そのことを伊作は少し羨ましく思った。 生後数時間で逝った双児の兄の身代わりにされ、自身に名が与えられなかった故に。 「俺も当時二〜三歳だったんでよくは覚えてねぇが、勘三が一歳になる直前に 死んで、そのすぐ後に三四が出来たから、割り切れてなかったらしい」 気付かれないように顔には出していないが、少し気分が沈み込んだ伊作に気づき、 その理由も知っているのに口を滑らせた文次郎は、「伊作の場合とは違う」との 意味を込めて付け加えた。 「そっか。…いい名前ですね。留め字も揃えていますし」 伊作の笑みが、少しぎこちないものになったことに気づいたのは、文次郎だけだった。 「ところで、姉ちゃんと文次兄って、どうやって知り合ったんですか?」 「私も、これでも忍術学園の出なんだ。だから、学園で」 先ほどから、無邪気に好き放題なことを言い出す甚五郎は、かつての後輩達に とてもよく似ていて、伊作は何だかほほえましい気持ちになった。 「言っちゃ悪いですけど、文次兄なんかのどこが…」 「おい! コラ三四!」 「う〜ん。どこだろうねぇ。こっちから惚れたわけじゃないし」 「いさ!」 おぞおずと、やっぱり失礼な質問をする三四郎と、それに対して怒鳴りつけようと する文次郎も、別の後輩に似ていて、だんだん伊作は楽しくなってきた。 そしてその後も、文次郎にとっては面白くない質問ばかりを、兄弟も父親も伊作に 投げかけたが、答える伊作が楽しそうだったり嬉しそうだったので、文次郎は 遮るのを諦めて放っておくことにした。 「楽しそうだな、お前」 質問責めから解放され、伊織を連れて親子三人だけで海辺を散歩している間も、 伊作の機嫌はすこぶる良いように文次郎には見えた。 「うん。楽しい。…みんな文次そっくりだね」 「そうか? 兄貴や甚五とは似てねぇだろ」 父権太は「ああ。将来はこんな風になるんだろうな」と思えるほどにそっくりで、 三四郎も隈を消したかつての文次郎に瓜二つだが、廉太郎と甚五郎はパッと見では 全く似ていない。けれど、伊作は自信たっぷりに笑って言いきった。 「顔はね。でも、甚五郎くんは声変わり前の君と同じ声だし、お兄さんは 手の形とか、骨格がすごく似てるよ」 声はともかく、骨格など容易に判別出来るものではないし、手の形も常日頃 よくよく見て見慣れていないと、すぐにはそう感じられないだろう。 それでも、伊作は当然のように「似ている」と断言した。 そして更に、「文次郎に似ているのが楽しくて嬉しい」とも言っているように 思えた文次郎は、口や態度には出さずに、こっそりとその意味を噛みしめた。
当家の潮江さんは漁師の次男で四人兄弟。(細かめの設定は此方) 実は本編十一話のすぐ後の話なつもりです。 一番書きたかったのは、たぶんお兄さんとのやり取りかと 2009.1.31 「浜梨」の読みは「ハマナス」 神経性の胃痛や生理不順に効く、海岸に咲く紅色の花だそうです。