落花 最終話
伊作は昔から、他人に触れられることをひどく恐れる節があった。特に、背後や死角から触れられたり、急に
腕を取られたり引き寄せられることを厭うが、思い返してみると文次郎はそういった触れ方をすることが
多かった。友人達からかつての話を聞かされその理由を知った時。文次郎は過去の自分を責め、後悔もしたが、
伊作がその手を振り払ったことが、殆ど無いのも事実だった。
それが、どれだけ大きな意味を持つかまではよく解っていない文次郎は、またも断りなくいきなり触れたことに
気付いて放したが、伊作に請われてもう一度抱きしめ、そのまま抱き上げてお堂の中程まで行くと、一旦伊作を
降ろして壁を背に腰を下ろした。すると伊作は、その隣に腰を下ろすと思いきや、文次郎に凭れかかるように背を
預けて語り出した。
「……一人きりで考える時間は、山のようにあった。だから、君と他の四人は何か違うか考えてみたんだ。
長次や仙蔵や留三郎は、全部知っているから、すごく気を使ってくれて、優しくて、嫌なことは絶対に
しない。だけど逆にそのことが、そうやって扱われる程に、僕は可哀想で汚れた存在だと知らしめる。
それは、すごく辛いことだと思う」
仙蔵自身にも話したが、それが仙蔵の手を取らなかった、一番の理由。
「それじゃ、君と同じく何も知らない小平太はどうか。こへは、性別など関係なく接してくれていた。それが
とても有り難くて心地好かったから、もし万一僕を異性として意識して、劣情を抱いてきた場合、一気に
嫌悪しか出来なくなって、友達にすら戻れない気がした」
何も知らず、決して変わらないことに安堵を覚え、そこに救いを見出した。
「でね、文次郎。君の場合は、優しさは解りにくいけど、だからこそ気付けると何だか嬉しくて、それから
君は意外と真っ当で真っ直ぐな性格をしているから、そんな君に想って貰えるなら、僕も案外捨てたもの
じゃないかもしれない。って思えた。だから君と付き合ってみようと考えて、君に嫌われて捨てられるのが
怖かったから、君を受け容れた」
自覚するまで時間は掛ったが、それこそが偽り無き本心なのだと気付いてみると、自分でも驚く程すんなりと
納得出来たのだという。そう聞いてようやく、文次郎は再会した時の伊作が、あんなにも儚げに見えた理由が
解った気がした。文次郎が、自分が選ばれた理由が解らず自信も無かったのと同じ位、伊作も愛想を尽かされ、
見捨てられないか不安だったのだろう。
「君の妻となり、伊織を産んで初めて『全て夢か幻だったらどうしよう』なんて悪夢に苛まれるようになった。
一度だけ仙蔵と関係を持ってみて、泉が出来たことで、ようやく気付いたんだ。君じゃなきゃ、文次郎じゃ
なきゃ嫌だって。……君の隣に立つようになって、僕はとても沢山の感情を覚えた。それは良い感情ばかり
じゃないけど、それらを覚えることで、僕は私になれた」
愛された記憶も愛した経験も無い為に、答えの導き出し方が解らなかっただけで、深層心理ではとうの昔に
答えが出ていた。そのことに気付き始めたのは、泉が胎に居た頃なのだという。
「仙蔵から聞いたかもしれないけど、私は、君が特別なのか確かめたかった。誰が相手だろうと、どう扱われ
ようと、結局苦痛しか得られないのか、そうではないのか。心を許し、私を愛してくれる人ならば、誰でも
耐えることが出来るのか。それが知りたかった。……仙蔵はね、優しくて、丁寧で、すごく私を気遣って
くれた。だから、苦痛も嫌悪感も殆ど感じなかった所か、その先もちょっと見えかけた。でも、頭の片隅で
ずっと『違う』って声が聞こえていた。そこで初めて、悪夢と限りなく近くても、君は君なんだって思った。
君じゃなきゃ嫌なんだって、気が付いた。それを確認させてくれた御礼と、そうやってより一層傷付けて
しまったお詫びと、私は絶対に彼の者にはなれない代償として、泉を産んで与えたの。それがとても残酷で、
酷いことだって解っている。でも、それしか思い付けなくて、それを選ぶ位には、仙蔵のことも愛していた」
自棄を起こしたか錯乱したかのように、少しずつ語気を強め、顔を歪めながら語る伊作の言葉を一旦遮り、
「責めやしないから落ち着け」と文次郎が声を掛けると、伊作は顔を上げて「良いの?」と問い掛けた。
「構わねぇってか、気にしねぇことにした。起こっちまったもんは、どんだけ後悔しようとどうにも出来ねえん
だから、もう仕方ないだろ。……ただ、一応訊いとくが、今は仙蔵をどう思っている」
「今でも好きだよ。ただし、親友として。泉も、大事な子ではあるけど、息子だとはあまり思っていない。君や、
伊織や文多とは違う。仙蔵を愛し、仙蔵の子を産んだのは、私であって私ではない。そう割り切ることにした」
予想以上にきっぱりと答えた伊作に、仙蔵の「私達の子ではない」という言葉の意味と、双忍と風早の関係に
ついてが納得出来ような気が、文次郎はした。
「……『信じて』とも、『許して』とも言わない。全ての判断は君に任せる。どう解釈して、どんな答えを
出しても構わない。ただ、出来ることなら、これから先も君の傍に、私は居たい。十年前から、私にとって
一番安心できるのは、きっと君の腕の中なんだ。……君が居れば、嫌なことも怖いことも来ないから」
思い返してみると、成り行きで同衾するようになった頃から、伊作は同じようなことを言っていた。つまりは
その頃から無意識で答えは出ていたのだとすると、実に遠回りをし過ぎたものだと文次郎は思ったが、それは
口に出さずに、
「んじゃ、お前の望む所からやり直してやるよ。……どこからやり直せばいい?」
実際の時間は戻せないが、最初の告白でも、初めて関係を持った時でも、求婚の言葉でも、捉え方によっては
仕切り直せなくもない。そんな風に文次郎が提案すると、伊作は緩く首を振って微笑った。
「ううん、やり直さなくていい。嫌なことも、辛いことも沢山あったけど、それでも、望みを叶えてくれると
いうのなら、この先、その分を埋めるくらい、幸せだと感じさせて。もう、そんなに時間は無いから」
「どういう意味だよ」
「持って十年。三十は越えられても、その先の保証は出来ない。……元々、あまり長くは生きられない血筋
らしくってね。その上、色々無茶し過ぎたから余計に」
気狂いの病で死んだ母も、元来丈夫な性質ではなく、そういう血筋なのだといった話を、幼い頃に側女から
聞いたことがあるのだという。それ故伊作は、無意識の内に生き急いで来た。その最たる行動は、おそらく
伊織が胎に居る時に打った死亡偽装の芝居だろうと、文次郎は感じた。
「そんな顔しないで。諦めているわけじゃないから、なるべく長く持つように努力はするよ。でも、覚悟だけは
しておいて。それから、最期まで微笑っていられるように、幸せでいさせて。それだけでいいから、お願い」
掛けるべき言葉が見つからない文次郎に、伊作は穏やかに笑いかけて懇願した。
「……解った」
「ありがとう。あと、もう一つ。会いたい人が居るから、帰りにちょっと寄り道してもいい?」
「ああ」
その伊作の「会いたい人」の見当はすぐに付いた。おそらく、気の触れた母に代わって伊作を育てた、伊織の
名前の由来ともなっている側女だろう。どんな女性なのかは知らないが、これだけ過酷な境遇の中でも他者を
慈しみ笑うことの出来る人間に伊作を育てたのは、間違いなくその女性だと考えると、文次郎も彼女に会って
礼の一つも述べてみたいと感じた。
「次泣かしたら、俺か立花先輩が掻っ攫うんで、覚悟しといてくださいね」
などという、脅しだか一種の激励だかよく解らない言葉を去り際に受けてきり丸の家を辞すと、よく考えると
二月近く経っているとはいえ病み上がりで体調を崩しがちの伊作と、幼い子供達を気遣いなるべく平坦な道を
選び、ゆっくりと無理はさせずに、伊作の記憶を頼りに目的の村へと向かった。そして辿り着く直前の宿で、
伊作は伊織に、きり丸から借り受けたらしき男児向きの着物と袴に着替えさせ、自身も着替えて化粧を施し、
髪を結い始めた。
着替えて髪もかつての伊作と同じように結われると、伊織は少々幼いが下級生の頃の伊作と瓜二つになった。
それを満足げに確認している伊作は、今まで文次郎が見たことの無い高価そうな小袖をまとい、化粧も髪型も
髪飾りも、何もかもが普段の彼女とは違っていた。
「これらは、私の母上の形見。この小袖は、母上が父上に頂いたんだって、とても嬉しそうに語るのを何度も
聞いたような覚えがあるし、他も全てかつての母上が好んだ物の筈。……今のおんちゃん位の年だったから、
正確に覚えてるわけじゃないけど」
元白拍子だという母親の形見なのなら納得はいくが、それでも文次郎は何やら落ち着かない感じがした。
「取っておいたのは、ただの気まぐれというか、どうしても捨てられなかったから。で、今はコレが一番
判りやすい筈だから着ただけで、もう二度と着る気はないよ。けど、こうしてみると私って結構母上に
似てるんだなぁ。って再確認しちゃって、なんか複雑」
そう苦笑する伊作は、文次郎が違和感を感じていることに気付いていたらしい。
「……久しいね、織野(おりや)」
目的の村で、近くにいた村人に家の場所を聞くと、伊作は文次郎達を家のすぐ脇で待たせ、伊織だけを連れて
戸を叩き、顔を出した女に笑いかけた。
「! 琴姉様と、伊作、様? でも、まさか、そんな筈は……」
「あ。それが本来の母上の呼び方だったんだ」
目を丸くする女―織野―に、伊作はわざととぼけた声を出した。
「……。もしや、伊作様、なのですか?」
「そう。ちなみに、判り易いように昔の僕みたいな格好をさせてみてるけど、この子は娘の伊織っていうんだ。
ついでに、今の私は一応『潔』って名乗ってるから」
それだけを極力軽い口調で話すと、伊作は文次郎達を呼んだ。
「忍術学園に行かされる話は、織野が嫁ぐ前から出てたから知ってるよね? で、そこで知り合って、色々
あって学園を辞めた後で所帯を持った夫の潮江文次郎と、下の文多。……文次。この人は、母上の側女で
私の育ての親みたいな人だった織野」
笑いながら互いを紹介してはいるが、だいぶ強がって無理をしているのが感じ取れた文次郎は、そっと伊作を
支えながら織野に頭を下げた。すると織野は、肩の荷が下りたように一つ息をつくと伊作に問い掛けた。
「伊作様…いえ、潔様は、今幸せでいらっしゃいますか?」
「うん。だから安心して織野。辛いことも、苦しいこともあったけど、僕は母上も織野も恨んで無い。会いに
来るのは遅くなっちゃったけど、それを伝えたくて来たんだ」
互いに泣き笑いの表情で語り合う母達に、状況がイマイチ解らず伊織が文次郎を見上げて目だけで問うと、
文次郎はどこからどう話したものか少し考え、一番大事な所だけを教えてやった。
「あの人は、お前らのおばみたいなもんで、お前の名前はあの人から貰ったんだと。で、ずっと会えなかったが
ようやく会いに来れた。それだけ解ってりゃ平気だろ」
その説明で納得したのかは定かではないが、伊織はそれ以上は訊かず、織野に挨拶をすることにしたようだった。
「はじめましておばさま。いさ母様の娘の、伊織といいます」
「はじめまして、伊織さん。……お母様はどんな方? お母様のことは好き?」
「優しくて、よく笑ってて、腕のいいお医者様で、大好きな母様です」
「そう。良いお母様なのね。……今、貴女達は幸せ?」
「はい」
にっこり笑った伊織の答えに、織野はついに涙を零し始めた。
「ずっと、後悔していたんです。伊作様のことを、奥様…姉様が跡取りだと信じ込んでいるのを、そのまま
信じさせるように手伝ってきたことで、伊作様のことを不幸にして、私が殺したんじゃないかって」
織野は元々伊作の母が白拍子時代に拾われた子供で、幼少期は伊作の母が世界の全てだったのだという。
そして伊作の母が死に、伊作が七つの時に二十歳でこの村に嫁がされて以降も、伝手を使って伊作の近況を
調べており、九年前に伊作の死を知った時から、ずっとそうやって自分を責め続けていたのだという。
「違うよ織野。織野は何も悪くない。何も出来ない幼児の頃はまだしも、それ以降は僕自身が選んだ道だ。
だから自分を責めないで。織野のおかげで、僕は今まで生きてこられたんだから」
宥める伊作の言い分も織野の思いも、共に理解出来る文次郎は、野暮かもしれないと思いつつも、少し口を
挟んでみた。
「いさを、こうやってすべて受け止め笑えるように育てたのは、貴女だと俺は思います。だから今はとりあえず
素直に喜んで良いんじゃないですかね。……いさは、居場所を知ってたんなら、学園を辞めた時点でひとまず
生きてることだけでも報告しとかねぇから、こんな後悔させる羽目になったことを反省しろ」
文次郎の正論に、織野は憑き物が落ちたような顔で「そう、ですね。ありがとうございます」と返し、伊作は
「確かに、それはそうかも。……あ。ちなみに織野。この人、コレでも私と同い年だから、敬語いらないよ」
などと、普段の調子を取り戻し笑った。そんな久方ぶりのいつも通りのやり取りに、文次郎は「やはりいさは
暢気に笑っている方が良い」と感じ、たとえ本人が言う通り先は長くないにせよ、終わりが来るまでこうして
穏やかに笑って居させてやろうと、己の心に誓った。
その後、伊作は十年以上は持った。けれど年々体力が衰え寝込むことも増え、最後の一年は床から離れられず、
光さえも失っていた。それでも、三十歳を越えて以降を「余生」と称し、常に喜びを見出し微笑っていた。
たとえ他者の目にはどう映ろうと、彼女の人生は短く苦難に満ちながらも幸せなものだった。
そう捉えることが、彼女に対する最上の餞であり、彼女の望みだったと信じよう。
落花
散り落ちる花。特に桜の花のこと。
桜は散り際が潔く美しいので、古くからその風情を愛されてきた
終わったーー!!
まさか1年半も掛かるとは思わなかったし、書いてる間に色々考えなどが変わって内容も変わった気もしますが、
伏線は多分全部拾った筈だし、何か当初の流れよりいい感じになった気がするので結果オーライで。
(実は序文が終章辺りの、潮江さんの独白のつもりだったんですよ)
※もしも拾い忘れの伏線や、矛盾点・疑問等ございましたら、遠慮なくご指摘下さい
2009.12.23
冒頭のどこかに、100質問を元にした、ビミョーな挿話を追加
2011.1.10
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