実は潮江家には「おばあちゃん」というものが居ない。
一応戸籍上は、祖父長次の再婚相手である雷蔵が祖母に当たることは、小学校高学年以上の子供達は
解っているようだが、それでも「おばあちゃん」としては認識していない。そして、伊作の実母は
言うまでもなく既に故人で、文次郎の母親も、実は彼が高校時代に脳卒中で亡くなっている。
その母親の死因を、父夏之丞が家事を一切手伝わず、苦労をかけ続けた過労から来るものだと信じ
込んでいる姉照代は、夏之丞と壮絶な口論を繰り返した挙句に家を出た。文次郎は、照代の意見に
全面的に賛成なわけではないが、それでも、もしも自分が結婚して、子供が出来たとしたら、あの
父のようにだけはなるまいと心に誓った。そしてその後。「進学しろ」と煩い夏之丞に反発して、
高卒でさっさと就職してすぐ、一旦は家を出た。
嫌々ながら頭を下げ、父を頼る形で戻ったのは約2年後。長男数馬が生まれる少し前のことだった。
ひとえに、薄給の若造な自分では妻子を養うのは難しい自覚があり、伊作達に苦労をかけたくない。
というのが理由だったが、その選択が、別の意味で伊作に負担を与えていたことを知ったのは、三人
目が出来たことが判明したすぐ後のこと。
「この家に居て、お義父さんと過ごしているのが辛い」
ある夜。子供達に、絵本を読んでやって寝かしつけた後。伊作が珍しく、文次郎の晩酌に付き合って
自分も飲むと言いだした。しかも、妊婦が飲酒してもいいものか。と文次郎が問うと、「ダメだけど、
薄いの一杯だけでやめるから」といって引かず、仕方なしに限りなくレモン水に近いような、焼酎の
水割りを作って与えると、それを一口飲んでから、ポツリとつぶやいた。
「確かに、計画性はないし、考えが甘いのも、わかんないことだらけで色んな人に助けてもらってる
のも、何もかもが手探りなのも、全部本当のことかもしれないよ。でもさぁ、僕達なりに、精一杯
頑張ってるよね?」
コップを持ったまま俯いて話す伊作の声は、僅かに震えていた。
「…親父が何か言ったのか?」
問いかけながらも、文次郎には大よその内容の見当はついていた。元からねちねちと嫌味ったらしい
夏之丞に、数馬の件で頭を下げた時から、文次郎も散々と嫌味を言われ続けているので、伊作も同じ
ようなことを言われているのだろうと考えていた。しかし詳しく訊いてみると、その嫌味は文次郎の
想像以上にひどい嫁いびりだった。
まず、「結婚よりも子供が先だった」「若すぎる」などについては、口惜しいが反論の余地がない。
そして、「子供の数(計画性がない)」「実家に転がり込んだ居候状態」なども、概ね正論ではあり、
ここまでは文次郎も散々言われた内容である。問題なのは、伊作が産休を取りながら、伯父である
新野の下で保育士として働いていることや、文次郎がわりとマメに育児に参加し、積極的に家事を
手伝ってもいることなどについて、「母親として怠慢」だの「妻の義務を果たしていない」だのと、
古臭い考えを押しつけて来るどころか、最近では未婚の母である伊作の姉仙蔵や、元教え子と再婚
した父長次、その相手の雷蔵のことまで色々と言って来るのだという。
「僕自身のことは、嫌だけど我慢したし、ある程度は聞き流せてたよ。でも、仙や父さん達のことまで
悪く言われるのは耐えられない。理由や事情もちゃんとあって、それをお義父さんに理解して欲しい
とまでは言わないけど……」
泣きそうな声で話す伊作に、文次郎は無理してでも実家を出て、夏之丞と決別する決意を決めた。
それが、10年ほど前のこと。
無理して家を買い、左近の下にさらに2組双児が生まれ、ローンの返済と教育費などを稼ぐために、
がむしゃらに働く文次郎に対し、伊作は
「無理はしないで、家のことは任せてね」
と笑った。その言葉に甘えるように、家族のことを顧みずに、仕事に打ち込み過ぎた自覚はある。
けれど、「伊作なら解ってくれるだろう」という甘えが、心の奥底辺りに存在し、それがいつしか
当然になってしまっていた。
そのことも、伊作が家出した要因の一つになっている。そこに気が付いている者は、まだ居ない。
たまにはちょっとシリアス風味。一応次のと対になっております。
安藤さんがだいぶ嫌な人になってますが、このシリーズでの扱いは、常にこんな感じです
2009.5.15
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